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日本的権力の二重構造

司馬遼太郎「余話として」に、「日本的権力について」というエッセーが収録されている。

日本では、古来から権力の一元化を好まれてこなかったというこのエッセーの論旨は、明快であり説得力がある。つまり、飛鳥~奈良時代にかけて成立し平安時代の基本構造となった天皇家と藤原家、鎌倉時代においては将軍家と北条氏、あるいは江戸時代にあっては、徳川家に対するカウンター諸勢力としての長州、薩摩、等。
鎌倉以降においては、前提として公家&武家という二重構造があり、武家のなかでも二元化が起きている。また江戸幕府のシステムとして、江戸町奉行をはじめとする重要な役職には、必ず二人以上を配置し合議制としていた等、ありとあらゆる階層において一元化ではなく二元化を志向していたことを指摘している。

興味深いのは、例えば中国で言えば皇帝を頂点とする権力の一元化が前提としてあり、日本は律令体制導入における「劣等生」と論じている点である。
その一方で、前回取り上げたように、土佐藩士たちのフラットな文化に、往年の共産主義風理想主義的な(あるいは戦後民主主義的な)”先進性”を見出していたりする。
おそらく、作家自身の内部においても、あるべき秩序やそれを構築するための政治思想が整理・統合されていなかったのだろう。そのような引き裂かれた歴史観や政治観は、たとえばクリエイティブの世界においては、宮崎駿がそっくりそのまま受け継いで作品を作ってきた。アカデミアの世界では、例えば学術会議的な存在として、その思考システムが存命である。

東洋にしても西洋にしても、舶来のものを深く考えずに礼賛し、本当は良いものを持ってる自分に気づかずに、劣等感と自己嫌悪でうじうじしながらも、なんだかんだで向こうの文明を取り入れてなんとなくキャッチアップする。そんな感じの思考システム。

このマガジンでは、余話として、余話的な感じで、日本古来の権力の二元化志向は、もしかしたら、後進性でもなんでもなく、極めてサステナブルな、生存戦略上、実に合理的で優れたシステムだったのかもしれない、ということを提唱したいと思っている。
そして、その主張は、西洋風の三権分立は結局の所、権力の一元化に対する対症療法でしかなく、二元権力基盤においては、実はそれは必要なかったのだ、という仮説にたどり着くことになると思っている。

中国文明において皇帝は、「権威であり、かつ実務である」という建前を崩すことは許されなかった、だからこそ、その矛盾が臨界点に達した瞬間(一個人の寿命が有限であり、世襲とした場合に、矛盾は原理的に避けられない)、必ず易姓革命が発生した。共時的に権力を一元化した場合には、通時的な二元化が避けられなくなる、ということである。
ヨーロッパでは、民主主義&国民国家という方法が生まれて進化した。個人個人の自由と尊厳は、平和な日常においては飛躍的に高まったかもしれないが、しかしこれはこれで、国家間の戦争の大規模化を引き起こした。

二元的な権力基盤は、「争いを最小限に留めながら環境変化に対応し次のシステムに移行する」という点において優れている。どちらかが駄目になったときに、もう片方が助ける。そういう構造だ。
日本人の大多数がそれを言語化してはいないが、どんな組織でも、日本的組織には必ずこうした特徴が芽生える。なぜそういうシステムが発生し進化したのか、それは悠久の縄文時代によって育まれたのだとしか考えられない。

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