HUNTER×HUNTER列伝 超番外編 我王

HUNTER×HUNTERに、オーラの攻防力移動は念能力の基礎にして奥義、なんて言葉がでてくる。プロジェクトマネジメントでいったら、議事録の取り方もまた基礎にして奥義だよなぁ、と思って、そんなことを書こうかと思っていた。念能力とはうまくいったものだ。実際に、リアルに生きて暮らしている私たちもまた、心の中になにかを念じ、思考している。思考の総量。それを外に発する量。発した量を分配するバランス。使う用途の系統。

そんな話から大幅に予定変更して、超番外編、手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」について書いてみたくなった。

脈絡がないわけではない。鳳凰編に登場する我王と茜丸が、冨樫作品のダークサイドの系列、「人を人と思えるか、どこまでが自分の延長か」問題と重なったのだ。

我王は若かりし頃、人を殺めて平気の生き方をしていた。人を人と思っていない、自分の延長にないから、殺し、奪うことに躊躇なくいられる。それは私たちの日常のメタファーでもある。殺人などということは、もちろん到底日常ではないが、心を通わせられない人間の心を傷つけ、利己的な考えで利用する。そのデフォルメとしての表現だ、と読むことは可能であろう。

深読みは一旦、さておき、一匹のテントウムシを助け、その後殺めることが仏門に入るきっかけになる。人間は自分の延長でなかった。ムシには慈しみの情が湧き、その化身である妻は初めて人として心を通わせた。手下の適当な発言で逆転する。救いのきっかけを与えてくれた師匠は、虫ケラのごとく自死していった。

人が人でなくて、虫ケラが人で、そんななかで初めて人と出会い、その人が虫ケラのように死んでいく。めまぐるしい価値の転倒、その連続。

当初の殺人へのためらいのなさは、まさしく冨樫作品におけるキャラクターに通じている。なぜ無関係の人をためらいなく殺せるのか。むしろ無関係だからではないか。自分が生き残るためには、奪うことは権利だ、という開き直り。同時に、人と虫ケラの対比という説話には、ジャイロやメルエムを連想させるものがある。

我王の意識にも、クロロの意識にも、他の人間は他者として存在していない。あるのは意味のわからない渇きという名の存在理由だけだ。同じ人間なのに、疎外された怒り、恨み。最初はただ、普通の愛情が欲しかっただけだ。自分に非があるわけでもないなかでの、不条理な拒絶。そこで人は、鬼になる。

火の鳥という作品のテーマは、永遠の生命とか、人間の愚かさ、罪だとか言うけれど、ちょっとズレていると思う。この作品のテーマは、もっとストレートであって、「思い通りにならない苦しみから逃れられない生」なのではないか。

怒りと苦しみ、不条理と理不尽、欺瞞と虚飾、徒労と無為に満ちた苦界。むしろ死はそれからの解放なのではないか。

我王は師匠の死に触れることで、一個の人間の絶対的無価値を悟る。それは、若かりし頃、自らを疎外した他者への恨みによって、「人を人とも思わなくなった」のと、似ているようで違う。あらゆる生命が人間と等価値であり、自分自身の延長である、ゆえの絶対的無価値である、という価値の転換。

2年間、無実の罪で迫害されたあとの師匠のセリフがいい。お前が生んだ仏はお前だけのものだ、誰にもまねられない、誰にも盗まれない。我執の徹底的な放棄が、唯一無二のオリジナリティをもたらす。これもまた不思議な逆説である。

茜丸は、才能も清い心も、運も野心もあったのに、最終的には、虚妄に囚われて自殺した。それもまた苦だ。茜丸の苦は解脱されなかったが、我王はそうではなかった。その違いはどこにあるのか。いや、そうではない。我王こそ、何度も何度も繰り返し生命を与えられては、責め苦を受け続ける。

手塚治虫はマゾなんだと、いっそのこと、そんな解釈でも良いのではないか。(よくない)

我王は火の鳥と問答する。一体どうしてそんなに苦しめるのか、と。火の鳥は回答は示さない。その怒りを、苦しみを精一杯うったえなさい、としか言わない。

そこに安易な答えのあろうはずもないが、しかしそれではあんまりだ、と、思わないでもない。

最後に、我王はひとり自然のなかで太陽を拝み、美しさに涙する。火の鳥とは、太陽である。人以外の自然、生命は美しい。余計な大脳新皮質と自意識を抱えた人間だけが、愚かである。文庫版の解説には、愚かであるにしても、螺旋状の前進への希望がつづられていた。しかし、どうなんだろうか。その答が見つからないから、太陽編という路線転換を余儀なくされ、現代編は描かれなかった、そう理解するのが正しいのではないか。

安易な結論を提示しないのは、哲学への誠実さであり、絵の美しさで誤魔化すのは、商業作品としての要求を満たすため、救いようのない苦しみを描き続けるのは、性癖のなせる技なのだ、と。

比較して、冨樫作品の性癖は一体、どこにあるのだろうか。手塚はすごくわかりやすいマゾだが、冨樫はサド、ドSなのだ、という理解は案外正しいかもしれない。ヒソカは言う。準備万端で必ず勝つという人間の、こんなはずではなかったという表情を見ると絶頂すると。とんでもないドSである。思いを通そうという意思と、それを阻む現実。そこに摩擦が生まれ、摩擦が熱を生む。クリエイトという行為が、やってもやってもやめられないのは、そういう構造があるのではないか。

HUNTER×HUNTERにおいては、絶対に勝てない戦い、という形式で、思いが通らない苦しみが繰り返し語られる。しかし、勝利条件の更新というマジックで、哲学的命題に発展することを回避させている。これぞドッキリテクスチャーもびっくりの詐術である、という読みもまた、あり得る。

解けない問題がいかに解けないかを強弁するのではなく、解ける問題にすり替える。

それを、物語る技術の前進ととらえるのか、語る射程の後退と理解するべきなのか。

クロロ=我王説、という読み方をするのなら、クロロにとって、速魚の役割が演じられるのは誰だろうか。話の構造からすると、ヒソカも執着しているマチが該当してしかるべきだろう。ただ、我王と速魚の関係は、手塚式のベタなメロドラマによって成立するものであって、冨樫作品には、クロロにはちょっと似合わない。

それでも、暗黒大陸行きの船に乗り込むクロロの表情には、価値の転倒が起きる気配は十分である。ノブナガの死は、団員をどんどん殺す今後の筋書きの予告だ。その先にクロロは、ヒソカは、改心するのだろうか。一念発起はあり得るか。クラピカは、茜丸的な堕落をするだろうか。


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