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142.(86/365) 委ねられた1時間。

「にょんさん、次年度の最初やねんけど、教頭さんから『学校経営方針の共有をにょんちゃんにお願いしよう。』って言われてんけど、何のことかわかる?」
そんな風に声をかけられたのは、年度末の教室掃除を終えて、職員室に帰ってきた時だった。
教務主任にそう言われたぼくは、キョトンとした。
「学校経営方針って、校長先生がいつも初日にみんなに伝えるやつよなあ。それの共有?ぼくが?ん?どゆこと?」
ぼくもわからないです、と正直に伝えた。
「そっか。いや、にょんさんの学年が年度末反省で出してくれてたから、大事やし、最初にちょっとじっくり時間とったらいいかなって教頭さん言ってたんやけど。」
そう言われて、ちょっと心当たりが思い浮かんだ。

学校が新年度初日に掲げる学校教育目標。
基本的に前年度と変わることはなく、昨年度のものがそのままスライドすることがほとんどだ。
それを校長先生が提案しても、誰も何も言わない。
教室で例えるなら、「これでいいですか?」「いいでーす。」って感じに近い。
果たして、本当にいいんだろうか。
その目標の解像度はきっと一人一人違う。
使われている言葉の定義も違う。
その目標と自分の目標がどうつながってくるのかも違う。
違うことは何も悪くないけれど、「違ってるんだな。」ということをお互いに知らないのは、良くないんじゃないかという気がしていた。
統合初年度の今年、特に、1学期の忙しさやわからなさは凄まじく、殺伐とした雰囲気は、今までの教員人生でも経験したことのないものだった。
しょっちゅう開かれるさまざまな会議の場では、昨年度までいたお互いの学校のやり方がぶつかることも多々あった。
「○○小では…」「去年は…」そんな言葉が飛び交った。
人は言葉で思考する。
日常自分が使っている言葉が、自分の思考や行動を無意識に規定していたりする。
「○○小は…」というとき、○○小以外の小学校での在り方と比較している。
「去年は…」というとき、今年のやり方と比較している。
そういう比較が無意識に出てくるとき、二項対立になってしまっていることが多い。
AかBか。
去年か今年か。
そうなると、人は知らぬ間にどちらかの立場を取ろうとする。
Aの立場に立った時、Bの立場にいる人と、対立構造が生まれやすい。
そうして、対話ではなく、議論が始まってしまう。
議論が悪いわけではないけれど、「どちらが正しいか」という信念対立の色が濃い議論は、関係性を紡ぐことを時に遮る方向に働く。
AかBか、ではなく、AもBもある、ということをまず受け止めることからしか始められないのではないか。
そんな思いがあり、学年で話した結果、年度はじめにみんなでその部分の対話ができればいいなあということになったのだった。

思い当たったことをそのまま教務主任に話した。
すると、年度はじめのタイムスケジュールに、1時間の時間を組み込んでくれた。
「ぼくがやることで生じる摩擦ってあるんじゃないのか?」
「なんでにょん先生が?って感情が生まれる可能性があるのって、良くないんじゃないか?」
そんなネガティブな感情もゼロではなかったけれど、せっかくの機会、管理職や教務主任から依頼してくれたことだし、引き受けることにした。
これまでの職場の雰囲気、年度はじめの緊張、教職員の異動…変数が色々あって、全部の想定なんてできないけれど、とにかくこの始まりの時間を「みんなで」「つくる」時間にできたらいいなあと思う。
いきなり押し寄せる事務仕事や決めなければいけないあれこれに、バタバタと結果を求めて動き回るんじゃなくて、年度はじめだからこそ、ゆったりと落ち着いて、対話から始められたらいい。
そんな時間をこの年度当初に組織として取れるというのは、結構素敵なことなんじゃないのかなと思う。
この1時間でできることは少ないかもしれないし、何かが大きく変わることなんてないだろう。
けれど、この1時間が何かの循環を生む最初のきっかけになったり、新転任の方の緊張がほぐれて打ち解けたり、お互いの大事にしたいことを知ったり、そんな些細な、でも大事なことが生まれる時間になればなと思う。
よし、楽しもう。

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