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嫁に行った私は無になる

母は元気になっている。年末に無反応になって入院したことが嘘のよう。
本人は入院したことは全く覚えていない。
身体は元気にはなってきたけど、記憶は忘れる頻度が増えてきて、覚えている時間も短くなってきた。
私のことも誰だかわかっていない瞬間がある。
誰だかわからないといいつつ、普通に家族の会話をしている。
だけどすぐ、思い出す。ほっとする。どうなってんのかな、脳みそ。

ほかの兄弟の名前は憶えている。だけど長女の私の名前は忘れる。
なんで、私の名前を忘れるのか聞いてみた。

「弟たちには世話になっているけど、私には世話になっていないから」

えええ!ウソ~~~~~~泣!!号泣!!!普通に言うな、普通にっ!
毎日電話してるのに。誰より母に会いに行ってるし、もう何年も、母の介護をめちゃくちゃやってるやんか。
またか・・まさかの2回目。

まだ認知症の判断をされていないとき。
父が亡くなって、お金遣いが荒くなってきて、よからぬ友人とつきあっていたので、母に了承を得て通帳だけ預かった。印鑑は母がもってるから、これで私がお金を下ろすことはできないよ、と。ちゃんと納得したはずなのに。
その時は納得したのに、ある日えらい剣幕で電話がかかってきた。
「通帳返して!」友人に何か言われたのだろう。私が盗るというのだ。
罵声というか、母とは思えないような権幕だった。

印鑑を私がもっていないからお金はおろせないし、そもそも母のお金なんて私が盗ると思っているの?と。
「盗る!」と断言された。なぜなら、私はよそにやった子だから。
そして、私には「一切世話になっていない」と。

今考えたら、認知症の症状の「もの盗られ妄想」だったと思うけど。
父の入院中も休みのたびに実家に行き、いろんな手続きや家のことなど全て私にまかせてたのに。嘘やん・・・・意味不明!

その時の私はとてつもなく大きなショックをうけた。結婚して戸籍を離れたら、「よそにやった子」になるのか、と。いままで両親にしてきたことはなんだったのか、と弟たちに泣きながら電話した。通帳は弟経由で母に返した。あまりに腹が立って。顔を見たくなかったし電話もしたくなかった。

その後、父の法事があった。丁度どうしても休めない仕事があって行けなかった。たとえ仕事がなかったとしても、私は行かなかった、行けなかったと思う。そのあとも数ヶ月は実家には行かなかった。
よからぬ友人と母の交流はとても気になっていたけど、私の受けた心の傷はとても深く、母の顔をまともに見ることができなかったのだ。
実家にまた行きだしたのは、やはり母が気になったので、何事もなかったように何もそのことには触れずに淡々と母の世話をした。

そして、再び「世話になっていないから」のフレーズ。

今回はもう認知症なので仕方ないと思っているので、自分の中でなんとか消化しているけど、やっぱりショック。ほんとにショック。じわじわくるショック。前のことも鮮明に覚えているし、棘は刺さったままだった。認知症だから、と思っても母の本音じゃないの?とどんどん凹む。凹む。凹む。

毎日寂しいかな、とアレクサで顔を見て話していたけど、してもしなくても覚えてないんやな、と思ったら、しんどい時には無理してしなくていいか、と。内心とても怒っているのでこれはささやかな抵抗なのかも。

母に電話するのはエネルギーがいる。一日中部屋のベッドで、「帰りたい」「つまらない」「死にたいわ」という母に、ニコニコとずっと笑顔で楽しい話題をし続けるのは仕事が終わってへとへとのときはしんどい。修行だ。
母が嬉しそうにするとこっちまでほっとして嬉しくなるけど、じゃあまたね、というときが心がずんと重くなる。娘だからね、性分だし。

結婚して、実家を離れたら母にとっては「よそにやった子」なんだなぁ。
昭和の価値観。嫁とか家とか。血縁とか長男とか。母は古い考え方ではないと思っていたんだけどなぁ。遠い他府県に嫁いだわけでもないのに。なんだよ、それ。

アレクサで唱歌や童謡をリクエスト。小さいころ、母はたくさん歌を歌ってくれていた。むかしの唱歌は心に響くメロディー。
写真のように、思い出す風景。公園の帰り道。夕焼け。ブランコ。一緒に行った銭湯。古い家並。家の前の空き地。壊れた工場。
ー夕焼け小焼けで日が暮れてー
思い出の時間はいつも柿色の夕暮れ。オレンジというほど鮮やかではない、柿色。

娘がお嫁に行ったときに寂しかったのかな。いやいや、そんなそぶりは全くない。定期的に実家にも子どもを連れて遊びに行ってたし。

なぜ頑なに、私の存在が無くなってしまうのか。

とても哀しい。


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