【観劇レポート】2018/03/06 範宙遊泳『もうはなしたくない』 @早稲田小劇場どらま館
すんごく今更だけど、観た人がいれば、感想を共有したいだけの記事。
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小劇場系のお芝居を観に行くのは、博打のようなものだと思う。
限られた情報の中で、何か心に引っかかるものがあればそれに縋ってチケットを取る。
それがあらすじなのか、宣伝美術なのか、キャッチコピーなのかは分からないけれど。
出演者や演出家、劇作家にネームバリューがある商業演劇は、チケットを取る時点でそれなりの安心感がある。でも馴染みのない集団だと上演が始まる直前まで、期待と憂慮が入り混じった気分になる。
その分、当たった時の感動は強い。
小劇場系という括りが万能なものではもちろんないけど、言いたいこと伝わるかしら。
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私が今回なぜ、範宙遊泳『もうはなしたくない』を観に行ったかというと、一番の理由が女性キャストのみで描く「性」というテーマに魅かれたから。
女性だけで演じられることによって、男女が混在する空間では描ききれない生々しいものが観られると思った。
実際、期待以上のものを見ることが出来た。感無量。
「性」と言っても、上辺の描写じゃない。性愛じゃなくて、女性の中にあるどうしようもなさというか、女性であるが故に感じてしまうロマンとか恐れとか、そういう本質的な部分。なるほどこの舞台上には男子禁制だなって思った。
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冒頭の会話は、どこか噛み合わずナンセンス。そこはかとなく漂う空々しさ。この違和感に期待してしまう。
他愛ない会話の中で、三人が虚構と現実、過去と現在、ひいては未来を行き来する。その境目が不明瞭だということが、こんなにも恐怖を煽るとは思わなかった。
自分が今現実だと信じて疑わないこの瞬間だって、もしかするとだれかの「ごっこ遊び」なのかもしれないとさえ思うほどに。
彼女たちは「ごっこ遊び」に依拠することで、救われてたんだと思う。現実からのシェルター。でもこれは安らぎと危険とが隣り合わせで。幕切れの時点では、戻れなくなってるんじゃないかな。アカネのグロテスクな幻想は、身辺の「暴力」から逃げられなかった結果なのでは、と観賞からかなり経ってから思う。
このトランスから覚めた時、彼女は何を思うのだろう。もしかしたら覚めないのかもしれないけど。異形な3人のその後を勝手に想像してしまう。
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これぞ演劇っていう表現が好きで、この作品にもいろいろあったと思うけど、一番ショッキングだったのは、リカちゃんが恋人の部屋に行った後のサイケデリックな音楽とカラフルな映像と光、そして無機的な動き。何となく不安なのに目が離せない。とても印象的なシーンでした。
何に重点を置いて観るかによって、どんなテーマを受け取るかは人それぞれなんだろうなと思う。Twitterで検索かけたら、いろんな人のいろんな見解があって興味深かった。音に対しての感覚とか、「はなしたくない」は「離したくない」なのか「話したくない」なのか、とか。
私は事実は記憶の中にしか存在しないんだって思った。物語の中に直接的に描かれてた訳ではないけれど。
物語が終わっても、依然として空間に残る違和感。その正体は自分の認識の不確かさへの気付き。私にとっての現実は、誰かの「ごっこ遊び」かもしれないけど、私にとっては今認識してる世界が記憶として積み重なって、これだけが事実で。こんな風に思うのはきっと、私の気持ちと体験が丁度そういうタイミングだったから。こういうところが好きだよ。
私もいつか、何かに違和感を抱いたとき、目の前のものが歪んで見えるかもしれない。あるいは、自分がそう見られるかもしれない。自分が見ている怪物を受容できないとき、私はどうするだろう。
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たった一つだけ気になったこと。一部の観客に対して、むやみに笑わないでと言いたかった。
登場人物がどんな気持ちでその言葉を絞り出したのか考えているのか、表面上の意味しか捉えていないのではないか、と。
それも私のエゴイズムでしかないんだけどね。
価値観の違う人たちと空間をともにすることの難しさは、いつも劇場に満ちている。
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「私は透明になってあなたを抱く」って、誰の台詞か忘れてしまったけど、この台詞は覚えておきたいと思って、帰り道反芻してた。こういう一節があるから、ますます好き。
私はこのお芝居の記憶を離したくない。
雑記。
衣装もすごく素敵だった。とってもおしゃれ。適度な毒に酔いしれる。