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バックパッカー旅 チェコ編 vol.5

翌朝目が覚めると、寒気が強くなっていた。26年生きていればわかる、完全に風邪を引いてしまった。
外でオートミールを食べながら、この旨ををどう伝えようか悩んでいた。住み込みボランティアの初日で、風邪を引く人は僕ぐらいしかいないだろう。数日間、自分がただの居候になることに申し訳が立たない。とはいえ、発熱したまま肉体労働をすることはできない。
仕方なくジャムに伝え、ひとまず今日は仕事を休ませてもらうことになった。

自分の家ではないところで病床に伏すというのは、非常に気が滅入る。ボランティアのメンバーが働いている音を聞きながら、ひたすらベッドで体を休ませていた。備え付けの掛け布団では体を温めきれず、持ってきていた薄いダウンを着て体温を維持させる。
身体が弱ると心も弱る。自分で自分を不必要に責めるようになっていた。26歳で職を捨て、はるばるチェコに来たにも関わらず、ただただベッドで寝ている自分を客観視しては嘆く。泣きたくても、泣けるほどの活力は持ち合わせておらず、ただただずっと、天井を眺めていた。
仕事を終えたヤシャが僕に飲み物を作ってくれた。ジンジャー、ハチミツ、レモンなどを混ぜた温かいティーだった。ジンジャーの効果で僕の体は一気に暖かくなった。
他にも「何か欲しいものある?」など、ヤシャは気にかける言葉を僕にかけてくれる。自分より一回り年齢が下の青年に看病されるのは不思議な感覚で、何度も僕は「ごめん」を口にしていたら、ヤシャが「謝らないでくれ。なんでそんなに謝るんだい」と僕に言ってきた。
「僕が日本人だからさ」と答えた。

次の日も万全の体調ではなかったが、働ける程度には回復していた。僕はズビロー駅に滞在してから3日目にしてようやく働くことができた。
使われていない駅のリノベーションにはいろんな業務がある。広い敷地のガーデニングや掃除、宿として部屋を貸し出しているのでその清掃やリネンの交換、不要な角材の移動、Webサイトの改修まで多岐にわたる。
病み上がり初日の業務は敷地内の掃き掃除だった。ジャムは雑多ながらくたのある倉庫からT字のほうきとちりとりを取り出し、ヤシャと僕に指示を出す。庇のエリアと駐車場を掃き掃除するというのが今日の内容だった。
庇はともかく、駐車場は屋根がないので炎天下での作業となる。病み上がりでの労働はかなり体に堪えた。一緒に働いていたヤシャが「無理しないでね」と気を遣ってくれる。
ようやく掃き終えたのが14時くらいで、その後に昼食を取った。ボランティアとしての業務時間は1日あたり4~5時間で、僕らの場合は休憩を取らずに一気に働くスタイルとなっている。そのため昼食と夕食のタイミングが遅くなる。ホストとボランティアを合わせると5人。英語を話せないのは僕だけなのでネイティブの速度で会話は進んでいく。会話に参加できないことは苦痛であったが、それも含め貴重な体験だった。
ベジタリアンの食事は毎食サラダなのでカロリーが少ない。僕らは間食としてトーストをたくさん食べた。

日本の会社員と同様、5日働くと2日ほど休日がもらえる。ヤシャは次のオフと同時に他のボランティアへ向かうことになっている。僕らはこのオフを利用して首都のプラハを回ることにした。
ヤシャは大きなリュックを背負い、僕はショルダーバッグ1つのみでプラハへ向かう。彼はカメラが好きらしく、電車の中で僕らはカメラの話をした。フィルムカメラで車窓を眺めている僕を撮ってくれた。現像したら僕にデータを送ってくれるらしい。僕も写ルンですを持っているので、後で写真を撮ろうという話をしながら電車をでる。

駅に荷物を預けた後、僕らは無計画にプラハを散策した。道中で見つけたアジアンレストランで昼食を済ませ、公園を練り歩いた。途中でお互い眠くなったので、芝生の上で寝てみることにした。
「日本人はあまり芝生の上に直で座ったり寝たりしない」というと「なぜ?」という言葉が返ってきた。思えば理由など考えたことがない。
「日本人は綺麗好きだから基本的に座りたがらない、けどなんらかのイベントでみんなが座りだすと平気で座りだす」としどろもどろに伝えたが、ヤシャにはあまり伝わらなかった。
直射日光の中、目を閉じて眠れるか試してみる。周囲には幼稚園から出てきたのだろう、子供達が楽しく遊んでいる音が遠くから聞こえてくる。ズボンやTシャツから出ている肌に、芝生がチクチクと刺さる。
数分まどろんだ後に、次第に足元が痒くなってくる。数匹の蚊が僕に群がっていた。たまらなくなって起き上がる。
「よく眠れたかい」とヤシャが仰向けにながら呼びかける。「いいや、そんなに寝れなかったよ」と僕は答えた。

昼寝を試みたあとは、公園の中にあるカフェでビールを飲むことにした。
テラス席のそばに公園の遊具があり、子供達が遊んでいる。日本にも、ヤシャの母国であるイスラエルにもない形式らしく、子供が遊んでいる姿を見ながらビールを飲むのは不思議な感覚だった。
カフェでは僕の旅のルートについて話した。10月辺りにはトルコにいると話すと、イスラエルに来ないか?と聞かれた。
「イスラエルは危険じゃないのか?」と聞いたら「首都の北側は危ないが、それ以外の首都部分であれば比較的安全だ」と言っていた。
「もしイスラエルに来るのであれば、僕が案内するよ」と言ってくれたので「日本に来てくれたら僕も案内するよ」と答えておいた。

次の日はチェコの博物館を少し巡った。チェコ国立博物館はかなり大きく、全てをきちんと見ようとすると数時間を要する。僕は英語を読むことができないので、暇そうに眺めていると「僕について行く必要はないよ。好きなようにみるといいさ」とヤシャが気を遣ってくれた。本を斜め読みするようにするすると博物館を歩く。宝石や化石、石像などが所狭しと並べられ、人々が興味深そうにそれらを眺めていた。言語が異なるだけで、ここまで興味を削がれるとは思いもしなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかズビロー駅へ帰らないといけない時間になっていた。
ヤシャとはハグをした後、写ルンですで写真を撮り、別れた。

数日経った後、他のボランティアのメンバーもいなくなり、ついには僕とジャムの2人きりとなった。僕の残りの期間は10日間ほどある。
仲間のボランティアがいなくなってからは非常に退屈だった。仕事が終わるとやることが全くない。仕方がなくズビロー駅の周りを歩こうにも、周囲にあるのは草原と森と池しかない。池の前に腰をかけ、物思いに耽るだけの1日もあった。ある時は草原で自分の好きな歌を熱唱していた。歩けど歩けど同じ景色。娯楽が全くない。
僕は自由に期待をし過ぎていたのかもしれない。日本にいる頃は忙しく、何もしない時間を欲していた。ところがいざ目の前にその自由が広がると全く享受できない。大きすぎる自由はただ心を蝕むだけだった。自由という概念を心から見出せるのは、不自由の中でしかない。光があれば影があるように、一方だけが存在することはできないということに気づいた。

早くここから出たいという旨を、ホストのジャムに伝えないといけない。
ある日の仕事が終わった後の午後、ダイニングでくつろいでいるジャムに「ちょっと相談があるんだけど…」と言った。
「お前、もうここを出たいだろ」とジャムは返す。どうやら僕が退屈していることをすでに気づいていたらしい。
「ああ、実はそうなんだ」と僕は返した。

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