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自己肯定の在り方と世界


はじめに

 普段から人間について考えることが好きで、その過程で蓄積した言語化のあれこれをここに綴ります。昨今、自己肯定感なるものの重要性が語られていますが、私の考えによれば自己肯定感はむやみに追い求めるものではなく、もっと広い意味での自己肯定、あるいは自己否定とのバランスを考えながら獲得するものとしています。

 きっと今もどこかで人間の悩みに頭を抱えている人がたくさんいるでしょう。人間に対する解像度を上げるとき、何だかよくわからない人間の闇に呑み込まれることなく、建設的な捉え方ができるようになるかもしれません。その一助となれたら、この文章を綴った意味があるというものです。

自己に対する認識の自覚


『あなたは間違っている。価値がない。生きていても意味がない』

 突然ですが、こんな言葉を浴びせられたとき、あなたはどう思いますか?おそらく多くの人が傷つくでしょう。

 しかし、なぜ傷つくのか。それを説明できますか。単なる文字の羅列に過ぎないようにも見えるものに対して、なぜ傷つくのでしょうか。

 人間社会ではどういうわけか、文字を創り出し、組み合わせ、意味を付与します。私たちはそれらの意味から自然と認識を形成し、コミュニケーションの基礎としています。そのひとつの結果として、それらの言葉に人間は傷つくようになりました。
 逆に言えば、それらの言葉を知らない赤ん坊に言っても傷つかないでしょう。これは日本人がイタリア語で罵られて何も感じないのと同じ話です。

 まず、この話で言いたいことは『人間は自己も含めたあらゆる対象を捉えるとき、必ず認識が影響を与えている』ということです。人間は生きている間に様々な認識を獲得しています。

 そして、もう一つ重要なものがあります。これらの言葉に傷つくということは『自分は正しい。価値がある。生きている意味がある』と無意識に思い込んでいることです。もし、最初の言葉と全く同じ認識を自分に対して持っていたら、大きな共感に頷くばかりでしょう。人間は生きるために必ず大なり小なりの自己肯定を必要としていることがわかります。

自己否定の意義

 そうした傷つくという現象一つからして、人間は無意識に自らを肯定し続けなければ、生が不安定になることを直観しているのかもしれません。SNSでよく見かける正しさへの囚われも自己肯定のひとつの在り方です
 実際、自らの存在が危ぶまれているときほど、歪んだ認識もお構いなしに正しさに囚われ、他人を否定した挙句、自分を承認してくれる人間や物事に執着していくでしょう。その力が強ければ強いほど、大きな不安を抱えていたということになります。

 おそらくそのような光景を多くの人が日常的に見かけたり、自身で経験したりしているはずです。それほど人間にとっては一般的な反応の結果です。

 しかし、そのような正しさへの執着は社会(他者)との関係の中で足を引っ張ることも少なくありません。自分ひとりで生きられる状況ならば、際限のない自己肯定が幸せに繋がるかもしれませんが、社会(他者)との接点を消せない人間にとって過剰な自己肯定は関係のバランスを崩しかねません。

 言い換えれば、社会(他者)との関係には一定の自己否定を必要とするのです。「自分が間違っているかもしれない」という自己否定の余裕だけ、自分以外の存在を柔軟に受け入れられます。反省という行為も自己否定によって成り立っていますよね。

 したがって、より良く生きる意味での重要な論点は自己否定そのものではなく、バランスの問題なのです。あるいは後述するようなもっと広い意味での肯定。この点を履き違えて自己否定の全てを遠ざけるということは、裸の王様になろうとする試みに近いと言えるでしょう。

主観と客観の世界

 自らの正しさに囚われることは、手っ取り早く精神を安定させられます。他人と議論するよりも『私が正しいと言えば、私は正しい』という論理はある意味で無敵です。

 それに他人の目を気にせず、自分で自分を評価できる強さは精神的な強さとして称賛されるでしょう。ただし、これらは良くも悪くも極端な結果を生みやすいため、自分を信じる場面と自分を疑う場面を自覚的に使い分ける必要があるのではないかと思います。このバランスを理解するには、人間が主観的な世界を生きている事情を把握し、客観的な世界との共存を考えなければなりません。甘い自己肯定に誘われてはいけない場面があります。

主観的な世界を生きる人間

 自己肯定と自己否定を語る上で、人間のものの見方は外せません。私たち人間は本質的に自分の視点からしか対象を捉えられず、自分にとってどうなのか?を常に語ります。決して他人の視点から語れないのです。この事情を指して、主観的な世界を生きるとしています。

 主観的な世界では自分ルールに基づいて動いています。他人は一切関係ありません。感情の表現も発言も、全て自分の無意識的な合理性によって行われています。「私が正しいと言えば、私は正しい」と同様に、「私が楽しいから、私は楽しい」と表現できるわけです。心から楽しめたとき、あなたは主観的な世界を存分に生きていると言えるでしょう。

 しかし、こうした主観的な世界を生きる人間は、客観的な世界において問題を生み出しかねません。当然ですよね。普段の会話でも、自分の言いたいことをただ押し付けてくる相手には疲れが溜まる一方です。

 少し難しい言い回しになりますが、人間は他人と身体的に区別された“自分”という存在を日々実感しているため、社会(他者)からは独立しているという認識を備えています。あまりに自分という存在が当たり前なため、主観的な世界を生きているという事情すら忘れてしまうのです。

客観的な世界との共存

 ところが、目の前には自分以外の人間や物事が無数に存在している世界があります。そう、そこが客観的な世界です。客観的な世界を観測すればするほど、自分自身もまた客観的な世界の一部であり、しかもどういうわけか他人とは決して相容れない主観的な世界を持ち合わせている事実に気づきます。

 人間は主観的な世界を生きるしかない。正確に言えば、語るしかできない。とは言え、幸い人間には持ち前の感受性や想像力、思考力を駆使して客観的な世界から見つめる努力もできます。他人の話を聴いたり、勉強をしたり、本を読んだり、自分以外の人間や物事と触れ合うほど他人を理解でき、理解は思いやりにも繋がります。

 ただ、やはり人間は油断すると、客観的な観測もすぐさま主観的に捉えてしまう癖があります。特に自己肯定という無意識的な合理性が働いたとき、客観的な世界は簡単に捻じ曲げられて吸収されます。主観的な視点から語る人間にとって、客観的な視点に徹することは非常に難しい。最終的に他人への思いやりではなく、自分の世界を守るために他人を残酷に切り捨てがちです。

 例えば、文章を読む際、筆者が何を伝えたいかを理解するのではなく、自分なりの理解という怪しげな理解に終始してしまうことがありますよね。自分なりの理解で満足することは、筆者あっての文章という点を忘れてしまっています。こうしたコミュニケーションは人間の日常と言っても過言ではないほど頻繁に見受けられます。

 理解できない場面での立ち居振る舞いが個人における社会(他者)=客観的な世界との共存の在り方を象徴しています。本当の意味で自分以外の存在を理解することは大変であり、そこと真摯に向き合えるのかという話です。


自己肯定と自己否定は世界との関わりを表す

 先に述べたように、自己否定とは一種の思いやりです。客観的な世界との関わりでは一時的にでも自己否定を受け入れられない限り、触れ合っている気分に浸っているだけで本質的には拒絶していることと変わりません。※本質的には拒絶せざるを得ないという見方もできます。

 自己肯定と自己否定のバランスとは、客観的な世界との関わり方、他人との触れ合いにおいて、本質的な自分を表現する必須事項とも言い換えられます。平たく言えば、裸の付き合いをするための条件です。自己肯定の先にある見栄や傲慢さ、自己否定の先にある虚無感や卑屈さを纏っている限り、あなたの本質は見えず、当然理解なんてできるわけもありません。

この人の話なら素直に聴いていられる』ってことがありますよね?

 それはあなたの肯定も否定もむやみに刺激しない人ということです。自分の心をさらけ出しても大丈夫という安心感を与える人や瞬間に対して“聴いていられる”という評価を与えています

 逆に言えば、自らの肯定も否定も刺激されない状態を実現できるならば、自分自身は安心して生きていられます。

 ここでこの自己肯定感なるものの在り方を述べた小難しい記事を終えてもいいのですが、もっと広い意味での肯定にも触れておきます。バランスなんて崩れている方が自然とすれば、これから述べる自己肯定こそが追い求めるべきものになるでしょう。


本来の自己肯定は存在の肯定

 本来、自己肯定として語られるべきものは、自分の正しさ、長所、成功などのポジティブな面の認識を強化していくというより、正しさと間違い、長所と短所、成功と失敗といった両面をひとつとした全体を肯定する行為と思います。

広い意味での自己肯定=愛

 なぜそうあるべきかというと、社会(他者)との接点はもとより、人間の不完全性からそうでなければ仮初の肯定に過ぎないからです。これは加点的なものの見方とも言い換えられます。

 人間は必ず失敗します。失敗しないために挑戦しない場合、人間として矮小化していくことになり、そんな人間ばかりで構成される社会もまた小さくまとまっていく他なくなります。私たちが普段から触れているおもしろいものや便利なものは数えきれないほどの失敗の上にある成功です。

 仮初の肯定に囚われると、成功しているという姿を見せ続けるために嘘をついたり、正しさに囚われたり、失敗を隠したりするかもしれません。そうではなく、失敗する姿もまた尊いものとして認識していく方が不完全な人間にとって健全なはずなのです。

 何よりその方が安心して生きられませんか?

 この安心感こそが私たちが求めるべき自己肯定の本質であり、重要なものとして語り継ぐ「愛」なのだろうと思います

 失敗した自分を温かく笑って見ていられる状態が本当の意味での精神的な強さとも言えるでしょう。精神的な強さとは思い込みではなく、乗り越えた先にあるものです。

終わりに

 正直、この文字数で語るには無茶な内容でしたが、ひとまず言語化しておけば発想の刺激にはなってくれるでしょうか。本当はこの手の文章を読まない人に届いてくれたらと小さな期待を寄せています。

 自分とは真逆の人間を目の当たりにしたとき、きっと多くの人は理解に苦しみますが、言い換えれば、今の自分にはないものをたくさん持っているとも言えますよね。理解を超えているから理解できない状態。
 価値とは何か?と考えたとき、理解できる価値というのは実はそれほど大きくないのです。理解は安心を呼び込みますが、それもまた主観的な世界、自分の価値観に引きこもる材料に過ぎません。

 ただ一つ補足しておくと、上記の文章では「自己否定の全てを遠ざける行為」を否定していますが、人間の幸せを深く見つめるとき、否定の全てを遠ざけ、主観的な世界に引きこもっている方が自然ではあります。
 この点についての反論は非常に難しい。主観的な世界からしか語れない人間にとって、わざわざ客観的な世界、社会の荒波に呑まれる必要がないということ。傷つくことを受け入れたり、乗り越えることの意味を伝えにくいのです。

 ここには「幸せとは何か?」という問いの難しさが詰まっています。もし、失敗もまた尊く、幸せであると考えれば良いのであれば、愛に溢れた社会を前提にしなければなりません。そうでなければ、失敗は単なる損失であり、誰も心から喜ばないでしょう。

 多様な社会になればなるほど、自らの価値観を疑い、傷つくことも争うことも増えてしまうかもしれません。しかし、モノクロより、グラデーション豊かな絵画を美しいと直観する人間にとって、多様な社会には今まで以上に多くの可能性と豊かさが詰まっていると思いたいところです。

 そのためには自分とは違う他人を目の当たりにしたとき、今回述べた自己肯定と自己否定の在り方を思い出していただけたらほんの少しは役に立つかもしれません。

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