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小さな独裁者

 人間社会の中では、独裁者になる条件が自然と整っていく場合があります。条件とは、コミュニティに属し、コミュニティの中で一定の権力を持ち、その権力ゆえに他人から叱責されないこと。これらが職業の特性や仕事の成果、勤続年数、年齢、性格、コミュニティの規模次第で比較的簡単に実現されてしまうわけです。SNSにおけるエコーチェンバー現象は身近な例かもしれません。

 人間は『動くと足下が見えなくなる』と述べたように、仮にどれほど優秀であったとしても、人間には必ず盲点があり、その盲点に気づかないままでは人格的に反比例の結果に陥ってしまうことがよくあります。「自分は頭が良い」と主張する人を見かけたら、頭が良いとは到底思えない行動に誰もが苦笑してしまうでしょう。

 小さな独裁者が生まれると、的外れな改革や理論に注力したり、パワハラまがいのコミュニケーションが露見したり、基本的にコミュニティにとっては良いことがありません。個人の力だけで人間的なバランスを保ち続けることは難しいものです。西郷隆盛の「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」という言葉の通り、能力が高いだけの人より、小さな独裁者になりにくい人望の厚い人がリーダーになった方がコミュニティは建設的に働く場面が多いかもしれません。

 しかし、徳ある者はなかなか目に見えません。功ある者は定量化できる指標で見分けることがある程度は可能ですが、徳ある者の人望や人間関係の所作が実は高度な技術であっても、コミュニティでは単なる良い人、優しい人止まりが多いのではと思います。誰もが小さな独裁者になり得る社会の構造の中では、そうした徳のある者からの学びは大きいのに、学ぶ対象として目立たないばかりか、いざ自分が独裁者になった頃には疎ましく思ってしまうとしたら恐ろしいことです。

「出世したからって調子に乗ってんじゃねえだろうな」なんて叱責できる人は親くらいなものですから、一度でも小さな独裁者になってしまうと歯止めは利かなくなります。SNSでは言葉や感情の強い主張が日々飛び交っていますが、強いほどに盲目し、個人としての協調性を疑われ、自らが加害者になる火種を抱えてしまう事実にも同時に気づかなければならないと思っています。この文章を書く私もです。

 他方で社会を生き抜くには、それだけ自己防衛し続けなければならなかった結果としたら、社会という環境によってもたらされた個人の一つの姿として受け入れなければならないのかもしれないと思うのでした。

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