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「YAU TEN」に行った話2

不本意ながら2枚目。簡潔に纏める力が欲しいね。仕方がない。自分のノートなんだし。雑記帳状態ですね。まあ、今回述べる部分については別日に行ったときの話だし。分けても良いかな。

どうやらトークセッションがあるらしいってことで、有楽町は定期圏外だったもんで自転車で向かいました。(帰り道で後輪リムが大破して泣きながら歩いたのは、また、別のお話……)

再訪時にはトークセッション(5/24)を目当てに行ったんです、はい。↓

開始時間まで中銀カプセルタワービルのバーチャルツアーをぐりぐり動かしてみよーかなーって思っていたら!!!なんと!!!バーチャルツアーをやるってぇ話になってたんですよ!!!
そりゃあ、まあ、参加しますよね。
しれっと椅子に座りました。

中銀カプセルタワービル保存再生プロジェクトについては↓

図録もあるぽいので、多分買っちまうなあ。
図録がな、カプセルみたいな四角で。こだわりと愛を感じた。そもそも愛がないとここまで、こんな住むにも厄介な建物のために図録を作らんだろうし、こんなに精密なデジタルデータを残さんだろうよ。「愛ってなんだよ、くそったれ」と悪態をついた若かりし日(現在も?)がありましたが、この、中銀カプセルタワービルに対する皆様の行動原理は「愛」と呼ばずに何と呼ぶ!っていうくらい。これこそBIG LOVEですわ……
そして、中銀カプセルタワービルLOVEな人たちが集まって、これだけ素晴らしいものを作って、それを広めて、さらに愛好家を増やして、って流れが完璧だなと。まさに理想そのもの。そもそもの愛好家だけでなく実地見学会にデザイナーさんだとか、アーティストだとか、見学会初期の頃とは違う人たちも来るようになったってのは、BIG LOVEが伝播したからに他ならないでしょうね。良いもん見させて貰いました。誰に感謝を伝えれば良いかわからないくらい、いろんな人の愛でできた作品だった。代表して「中銀カプセルタワービル」そのものに感謝する。ありがとうございます!!!!!タワービルとしての最期まできちんと見届けます!!!!!

そして地味に遅刻して参加したトークセッション①「エリアエネルギービジョン〜まちのビジョニングとアートの交わり〜」
途中から参加したせいで(自業自得、だが後悔はしていない)誰が誰だかよくわかんないまま話を聞いていたが、なんとなく向かって左手側がアーティストで、右手側がエネルギー関係者ってことで合ってたかなと思う。
ビルの地下で、エネルギーの始発点と終着点(途中の過程も含めて)が洗練された都会っぽい映像でまとまっていたと思う。見る人もつくる人も都会の人間だからこういうまとめ方のほうが良い気がする。(もっとやりたかったことがあるという話も聞いたが)有楽町で展示してくださいっていう話に沿った(ように見える)、良い作品になってた。
このトークセッションで一番印象的だったのは、やっぱり、見えないものをどう可視化して表現するかということに対して、言語を用いて、レジュメなりパワポなりにまとめて共有する手段が社会では一般的だけれども、そうじゃない手法によって(今回ならば映像作品として)訴えることができる。さらに、文字資料は言語を読むことができる人に(加えて言うならば読むという明確な意思を持った人に)届くっていう、ある程度限定的なコミュニティの中で共有されることになるが、作品次第ではその共有先が広がることになるってのを見せてもらった気がする。もちろん、その作品をどの程度理解することができるかっていう受容者側の問題に大きく依存することになるけれども、何かしらの気付きや、普段の生活への別視点をもたらす良いきっかけにすることができるんじゃないかなと思った。その別視点が作家個人の欲望から発せられたものであっても、そういう視点があるのかーっていうのは多様性を標榜する社会において良いことなんじゃないだろうか。
蛇足ですが、エネルギーをビューンってやるような映像をはさみたいって話がありましたが、私はそれをCGでやったのを見ても「なんだこのプロモーション映像は。くそダサっ」としか思わない気がします。あぁいう思考の余白、説明しすぎないところも作品の良さなんじゃないですかね。

そして。(私個人的には)問題の②「溶ける境界としての『渚』/有楽町から考える」
①のトークセッションを目当てに来てたし、こっちは聞かなくても良いかなぁ、いや、でもせっかくだしって具合で聞き始めた。
そもそもの聞く側である私のテンションの低さもあり、すっごくおしゃべりする民俗学者さんとの乖離が、序盤から甚だしかった。有楽町で逢いましょう(独唱)を聴いてからは、余計に低くなっちまったなあ。
あとは、思想信条の問題なのかもしれんが、聞こえ方の違いだったのかもしれんが、「歴史的事実としてちゃんとあるんですよ!」ってなんか、トンデモ本みたいな感じがしてアレルギーだった。しかも、『無縁・公界・楽』の話でしょう。網野氏の名前を一回出したぐらい(だと思われる)で、だいぶ私が斜に構えてたとはいえ、市や虹の話を網野の研究内容をさも自分の研究成果のように語るってぇのは、いただけない。まあ、トークセッションっていう発表の場で、どこまで引用をしっかりするとか、そういうガイドラインがあるのかも分からないのだが、引用と自分の意見はきちんと分けましょうって学部のときに習ったもんで。研究者って、こんな感じでも良いんだ……声が大きくて、我が強ければ研究者って言えるんだ……と思ってしまった。私個人的な意見としては、研究者って、そんなのであってほしくなかった。
と、まあ。ごく個人的な愚痴をキメたところで。このトークセッション②の一番の問題は、独演会を許してしまったことだ。そもそもトークセッションとは何のために行うか。登壇者らの思考のぶつかり稽古ないし、葛藤の様子、過程とかそういう交流の場を見せることにあると思う。だから、独演会状態になってしまった時点でトークセッションでも何でもないんだ。しかも、タイトルがアーティストメインの話である(と、私は思っていた)。アーティストの作品がすぐ向こうの部屋に展示されていて、このトークセッションに参加する人なら共通認識としてあの作品はあるし、あの作品を中心に作家の話を聞き、それに対して場の提供者サイドからは、民俗学者からは、っていうアプローチになるのが、聴衆にとっても分かりやすい話の流れなのではないだろうか。あの場で網野史観をどの程度の人が知っていただろうか。(有名な本だし、あの民俗学者が登壇してるのを知っていて聞いてる人たちもいるだろうから、まあ、全員が知ってたのかもしれないけども)
20分を過ぎたあたりで、
「あれ、私は何を聞かされているんだろう?」
しらーっとしてしまったんだ。
キャラが強い人を纏めるには、相応の技術がいるし、登壇者それぞれにそれぞれのことを知りたいというリスペクトがないとトークセッションってうまくいかないんだなあと思いました。あとは、トークを展示する以上、聴衆の理解具合、共通認識とかの確認は怠ってはいけない。もし、万が一、私が企画するときはそこに気をつけよう。

良くも悪くも、いろいろな発見や気付きがあった回でした。こんな素人がしゃしゃってすみませんね。また読みづらくって、長くなっちまった。頓首頓首死罪死罪。

断末魔の叫びとして。
山城知佳子については、去年8~10月に東京都写真美術館で展示やってただろうに。自分が関わったから宣伝とか、そういう下品なことを勝手にする前に話題として山城知佳子が必要ならそちらの話をしたほうが良かったんじゃないか。山城知佳子初期の方の作品だったと思う、墓の前でダンスする映像などは「境界」を意識するいい題材だったんじゃないかなあ。
リフレーミング展(終了)↓

もちろん今行けるのはこっち↓なので。


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