見出し画像

少しだけホラー。

大小二枚の板が同心円上で回転している。その板の間から白い球体が滴のようにこぼれると、私の体の上でポンポンと転がる。
いくつもの星がひとつの思念に繋がるかのようにそれぞれの流れにまかせいつしかその光輝は体を縛る。
徒刑囚になりさがる。
鎖に繋がれる。
どうも体液に捕らわれた体は微かに動かすことが出来たとしても、重力によって引き伸ばされていくようだ。そして手足がミリミリと肥大する音が聞こえ、感覚は鈍くなっていく。
そこに私の体は、何処にある?

僕は彼女を拾った。冷蔵庫の中に棄てられていた体。白く冷たい無機質な体を。
青い空を切り裂くがらくたの山。そこから崩れ落ちた冷蔵庫は、草地の水溜まりで止まり薄汚れた扉をわずかに開かせ長い髪が落ちている。
辺りの臭いは鉄錆びた血のようで、口に含めばざらついた味がする。肺の奥で何かが燻る気がした。冷たく過酷な冬の匂い。
いまそこにある冷蔵庫、開いた扉からは白い肌が見えている。それは、生きてはいなかった。

あなたには目の前が一つの色に塗り潰された事が有るだろうか。
熱く燃えるような赤、海よりも深い青と穏やかな緑、全てを飲み込む黒。そして抑えきれない衝動の白。多色刷りの世界ではなく単一に塗りつぶされた絵画。
あの人の周りは何時も漠とした白い靄に包まれ近く触れたものはそこにある。いや、何もない何かを見て震える。
形の無い殺意は足元から伸びた暗がりへと広がり周囲から差す明かりは全て吸い込まれていく。小さな穴へ何処までも何処までも、深い影だけを残して、あの人の足元は不安定にいつも揺れていた。

ざくりと私の体を刻む音がしている。ビリビリと薄い紙をやぶくように手足の皮膚が切り裂かれていく。
私は痛みを感じない。大きな血溜まりの中に浮かんで空を眺める。
澄み渡る空は何者からも縛られる事なくいつも同じ景色を写して飽くことがない。
私も直ぐに一部となって世界と繋がる。そんな希望を持ち希求する意思は現実となるその時を待ち続ける。

その時私はあなたを恨みます。その嘘は何度目の嘘でしょうか。私は噂で知っています。あなたの言ったその言葉、そこに真実がないことを。でも私はまだあなたを赦していられるようです。何故なら何時かは私の物になると知っているから。何時までも待ちましょう。私は知っています。あなたが何でもない物事をすぐに嘯くその癖を、そしてそれを可愛く思う私の心にはどれだけの時が流れようとも其処に何時かは綺麗な花が咲くでしょう。はらはらと切ない黒い花の蕾が。それまで私は小さな世界であなたをじっと眺めています。そう、あなたのその大きな背中を。美しく想う。

口からは赤い血が泡のように溢れだしている。か細く鳴く声はもう聞こえない。手足は微かに震え、肌は艶をなくしている。白い肌が美しかった。

貴方の赤い血が見たいのです。
身体から流れ出る血液を此の手で受け止めてあげるから、貴方を深く傷付けてみたい。
刃先が貴方の柔らかい皮膚に沈み込む感触を私にもう一度感じさせてください。
だいじです痛みを感じるのは一瞬。
笑いながら貴方は世界を知ることが出来ます。
その時の充実感は知識を越えるでしょう。

ベッドの中で小さくなっているとき、私の世界は果てし無く広がる。丸めた体が広大な宇宙のちりになり、私の周りは悪意に抱かれそしてあの日がやって来ると、朝を迎えた私の体が赤く染まって明日を見ている。永久回転を続ける宇宙の片隅で、私はまろやかに溶けてゆくまで。
美しい、この世界、際限なく何度も繰り返されてゆくコントラスト。それからゆっくりと止まった時間は軋みをたてて全てを殺す。

グリルから流れる白い煙が私の胸を和ませる。硬く強張った神経をほぐすような、全てを隠してくれる魚の香りに焦げるのもかまわずコンロの前で煙草を飲む深い夜。
僕のテレビは人を殺す為の合成音声を相変わらず受信しているけれど、私と彼女は騒がしい外の世界を拒み続ける、そしてすぎて開く時間はいつまでも終わりのないように見えて。
だけど私は煙が流れて行く先を台所の床に座り見上げていた。
隣の部屋で彼女の身体が冷たく横たわっている。ベッドの上で青白い肌には紫斑が所々浮き始めていたけれど、それも綺麗なものだと感じる心は常に彼女の頭の中へと巡り巡って私はここから彼女の中に侵食していく。


彼女との繋がりはまだ切れたわけじゃない。いや、むしろ私達の繋がりは強くなったと言えるかもしれない。毎晩と言わずまだ外が明るいときから夜遅くまで、私は彼女の体にこころを流し続けては抱きしめている。
時間の制約を離れ体の不自由すらも私達には問題とならなくなった関係性はとにかく心が望むままに体を重ねようとする、冷たい身体に私の体から温もりが伝わると二人の感情も交錯し、このまま私達は一つの身体になるのだと思いたかった。

それほど二人の時間は終わりがなかった。
ネットで調べると生きることをやめた身体は内臓から痛みはじめるからとの書き込みを見つけて、僕は彼女のお腹を切り開くことから始めた。幸い包丁は良い物を彼女が掴んでいたからそれを彼女の膨らんだお腹に差し込むと、黒い血の塊がドロリと風呂場の床に流れ落ちた。まだ腐敗しているようには見えないが、僕は彼女の大腸を傷付けないように優しく取り出してビニール袋に詰めていった。中身がなくなり寂しくなったお腹の中に柔らかなクッションを詰めて、胸からへその辺りまでを切り開いた傷口はていねいに縫い糸を使い閉じてあげた。その傷口に浮かぶラインはそうなるべく初めからあったように思えて、私は傷口に何度も触れてしまう。生臭い鉄の味が口腔内に広がると僕の心は張り裂けるほど満たされていくようです。
ピリピリとした感覚が残る。

傷口から流れ落ちた血液が布団の上を赤く染めていた。ドロリと黒い血液が私の心を覆いつくしていく。目玉は淀み僻目のようになり天井を見上げたままとまっている。その細い首を両手で掴むとやわらかな感触がぐずりとかたちを崩すように、手のひらの跡が浮かぶ。私は汚れていくのを理解しつつも彼女の表情に噛みつきたくなる衝動を抑え冷たくなった額と額を重ねる。
彼女の頭の中に残された記憶が流れ込むように、家族、友達、彼氏、色々な人の顔が私の意識に浮かんでは消えていく。彼らはまだ彼女かここで姿を変えていることを知らない。彼女はここには居ないはずだから。

二人で楽しんでいると金属の扉がゆっくりと開く耳障りな音がした。廊下の先を見やると子供の影が浮かんでいる。やっと帰ってきたようだ。
「ちゃんと他人に見つからないように帰って来れた?」
ゴソゴソと靴を脱ぐ音が室内に響いている。
「大丈夫、昼間に外歩いている人なんてお年寄りしかいないから気がついてもちゃんと見えてはいないよ」
まあこの娘なら外を歩いていても気にする人はいないだろう、だけど忘れることはできない。
私の隣にユキは座ると暑いのかシャツの中にパタパタと空気を送る。隙間から黒いタンクトップの肌着が見えてる。私の手のひらから体温がじわりと伝わり汗ばんでいった。
「ちゃんとご飯食べてる?」
ユキが心配でもなさそうに呟く。それほど気にすることでもないけれど、日が沈めば問題になることもないだろう。
「じゃあこれから外に食べに行くか」
まだその時の私達にはゆっくりとできる時間が残されていた。

部屋に帰ると僕達は三人で残っていたゲームを遊んだ。冷たくなった体からはぐにゃりとした心地よい感触が腹部に触れる。そのたびに僕は彼女の体をもてあます。そのうつむいた表情は両手の中で確かめる事はできないけれど幸福感に包まれて重たい頭が私の肩に気だるげに寄り添う。それだけで満たされているのは何故なのだろう。
「そんなに好きなら食べちゃえばいいのに」
さらりと確かめるような瞳で私を見つめる。
「そういうわけにもいかないよ、食べたら少なくともこの目に見ることが出来なくなるし、確かに満たされる同一性には惹かれるところもあるけれど、そこに必然性はあるとも思えず形として残すものなら興味はない」
彼女は右手に光る角ばった指輪を優しく回す。小指にしか入らないのは残念だが。

暗い月明かりの中で私達は何度も一つへと変わる、動かすたびに彼女の身体は無機質に揺れる。人形のような身体。使っていた香水の香りが移るのも心地よい。
わずかに流れる血液が白い腹部を赤く染めて、開かれた両手を掴み頬にあてて彼女の温もりを確かめる。何度繋がったとしても化粧もしない、服で着飾ることもない、少なくとも変化は絶えず常に一定の密度を保つ。
そんな毎日でもいつかは疲れが蓄積されていくように、ゴミ袋の中にコンドームの残骸がたまりはじめてしまうように、そんな残骸をユキは丁寧にゴミとして処分する。そんな生活は嘘で塗り固められていた彼女の人生が新しい世界を見つけて大きく翼を広げたように鼓動と息切れで機関が赤く発熱し、どうしようもない汚れた景色が幸福に満たされていて濃密な時間の中やさしさに申し訳なくなるようなものだろうか。

それでも彼女の中では着実に老化する時を刻み続けることを忘れることだけはできなかった。仕方がない。そんな言葉も涙が出るほど悲しかったけれど、僕にはそれ以上に凶暴な風が胸の内で苦しかったのかもしれない。どうして僕のからだはいつも簡単に壊れていってしまうのだろう。小さな頃から逃げることができなかった暗い世界は幻のように白い部屋の壁をスクリーンに映し出している。

だったら僕達はどこへ行けばいいのだろうね。

長いと思っていた時間も楽しいことは過ぎていくのは早すぎて、彼女の体はもうベッドの上で耐えられない物になってしまった。このままいつまでも彼女と抱き合うことができたらいいのに。それは私にしてもどうする事も出来ない事実だった。じゃあこのまま何時までもここで朽ちていくのを看取らなければいけないだろうか。
「また次の人を探せば大丈夫だって、私も手伝うから今度はちゃんとしよう?」
背中越しにユキの息が伝わって、私はその脈拍のなさに実行力を取り戻していくのを感じていた。視線の先には外から買ってきていた大きなカバンが床に沈み重力を歪ませていた。
そんなにガッカリしなくてもいいじゃない。

諦めてしまえば全てが前に進むしかない。
二人でアパートのドアを簡単な溶接器で癒着してしまうとダクトテープで何重にも目張りをした。近くを線路が走るために外部は音に紛れて気密性の高い窓は閉めてしまえば孤独へと沈む。
「天井に穴を開けたから後は何時でもお隣さんが居ない時だけ逃げる準備が万端だ」
ユキはガラスの無いメガネの中で喜んでいる。最後に腐敗の気配が濃く漂う体を私は優しく抱きしめた。

彼女はこれからもこうやって浴槽の上から風呂場を眺めているのだろう。


人は誰、だれもが一人きりで生きている。そこに救いを求めることは大切なものを冒涜しているようにすら思える。
今、私が立っている景色が荒野に見えるのは世界には豊かな物など存在しないことを表している、人の命なんて大地から生まれる生命の前では塵芥と変わりはしない。
私の後ろに赤い足跡が続いているのはこれまで歩いてきた道程の証明。振り返ることなどしたくもないが。それをネガティブに捉えてはいけない。
私は両手を目の前に立ちふさがる壁にあてる。触れたところには必ず赤い血の花が咲いていく。それは私の生きる為の証明。
巨大な壁は人生そのもの。どこまでも果てしなく伸びた壁は逃げる事のできない運命だから。
見上げた空に浮かんでいる丸い月は高潔なものを代理している。人が望むべくもない高みに浮かぶ月は誰一人触れることは許されない。
それに向かってぐんぐんと建ち伸びる人間が造ったビルは破壊と混沌を望む人々の希望。

中身のない空虚な言葉がこぼれ落ちてますね。なぜこんなことを私が呟くのかと言うとだな、世界はみんなが思っているように単純で、どこを見ても黒く汚れた取るに足らない物でしか無いと証明するためには低俗な言葉を必要とする。


腹の底から冷えるほど寒い冬の夜はひとり夜道を歩いていてもコートの中は暗い影に濡れているし、このままうつむいて歩く視線の先でトコトコしている破れたスニーカーなんてものは残酷なほど僕の心を切り苛むナイフでしかなかった。これほど今の僕を表現しているものはないと思う。その足が向かう先には暗がりしかなくその下には冷たいアスファルト。穴の空いた靴に可能性なんてものは存在しない。

ポケットの中に手を入れるとサラミの袋があるけれど僕はそれを食べることはできない、というか食べない。今日は公園に居ないみたいだから少し住宅街の中に分け入って探すことにした。最近夜でも見かける数が減っていたので寂しかったから少し落ち着いていられないし。でもこの古い商店街の裏通りなら飲食店の残飯だとか、温かい寝床があるから絶対見つけることができるはずだったんだけど。たまに出くわす酔っぱらいの臭い息を避けるようにふらりと歩いては物陰を覗き見ていく。だけどその日はそれすらもハズレてしまって途方に暮れると思いきや、自販機の明かりでかすかに救われるんだな。

今日はだめな日なんだよな、そんな時もあるものだけど、ベンチに座り温かいコーヒーを味わっていると居酒屋の裏口から線の細い男の姿がゆらんと出てきて僕に向かって笑いかけてきたんだ。
「君は猫は好きですか?」
大学生くらいかな、思っているよりも若い気はするが僕はこの人を知らないから返事をするべきか困ったぞ。
「好きですよ。今日も猫を探してた所なんですが」
もしかしたらこの人も探してたりするのかな?
「今日はもう遅いからやめた方がいいと思います。明後日くらいになれば、そうだ、第3公園を知ってますか?」
「公園ですか?少し小さい住宅街の中にあるやつですよね、わかると思いますが」
その人はまた初めて見たときと同じようにやさしくほほえむ。
「じゃあそこに11時頃、夜のですね、暇なら来てください」
幸か不幸か僕はこの人を疑うことを知らなかった。普段ならば人の話なんて聞くはずもないのにね。だけど印象は良かったし、同じく猫を探している人を疑う理由を僕はその時から持ってはいなかったから。

約束の夜はいつも以上に冷えていた。コートの前も首元まで閉めて息を吐いて手のひらを温めながら公園まで歩いていった。
「やあ、ちゃんとくるんだね、うれしいよ」
その人はすでに手の中に白い猫を抱いて待っていた。その時彼はブランコで子供が遊ぶように揺れて、優しく猫と戯れているように見えていたんだ。でもね、僕が近くに行くと猫の苦しそうな声がしていることに気がついた。
その音がクウゥと喉を締め付ける音だとわかった理由は言うまでもないけれど、片手に手足を抑えて暴れる猫の首をぎりぎりと時間をかけて締め上げていく。その手際は冷酷で心優しく人間的な所作に見えた。僕はそれを眺めてこのまま猫の骨が折れるのかなと思っていたけれど、彼は力加減を心得ているのか生き物をゆっくり殺すことに長けていたようだった。

僕はそれを冷静に眺める事ができる人間だった。少しの恐怖もなかったのかというと嘘になるかもしれないけれどそれ以上の物はやっぱりあってそれが何なのかその時の僕はまだ理解出来ていなかった。その時理解していたことは生きる事と成長する事は繋がっていて、進化するためにはこの子達は不的確な生き物でしかなかったという事だろう。

命は儚いものだから。
「どうして」
その一言を言う事は思いの外新しい意味も含んでいたようで、僕は彼の瞳に映る世界を覗き見してみたいとわずかながら興奮していた。
「君もわかっていると思うけれど、理由が必要なのは目的がある場合に限る。だからこの行為に意味があるのかと問われたら僕はこう考えることにしている。それはね、この子はこれまでずっと一人で生きてきたけど、昨日までは沢山の生き物たちを食べてお腹を満たしてきていた。でもそれは今日で終わり、僕というちっぽけな存在に殺されてしまった。それは悲しいことでも残酷なことでもなくただそれだけの話だと思っているよ」
その人は死んでしまった白猫を撫でながら語るけれど、ぐったりとした体に少しだけ見える舌は可愛い。半ばまで開いたままになっている瞳は遠い世界を夢見ているかのようで少し羨ましくもある。その先を見上げたあとで、彼は音もなく上着のポケットから刃物を取り出すと猫の柔らかな毛先で撫でつけるように優しく触れていった。

それからの彼は手早かった。

首の辺りに刃先を差し込んで血液が流れ落ちるままにすると手足にぐるりと切り込みを入れて猫の腹をカッターナイフのように薄い刃物で切り裂いていく。それはカミソリと言うには少し大きい気がしたけれど、その切れ味は猫の首を切り落とした時に瞠目した。
革を剥ぐのもザリザリと果物の皮をむくみたいに切り雛して、内臓はアルミの密閉袋に入れなるべく血液は全て土に吸い込ませていた。その点公園の砂場は少し掘るだけで黒い土にまぎれてしまうから内臓から取りだした糞をあたりに捨てておけば誰も詮索しないみたいだったと後で気がついた。
猫の皮と肉、それに頭を別々のランチボックスに詰めて、それをていねいにバックパックの中にしまった。
「それをどうするんですか?」
中身の配置を整えながら少しだけ考える顔。
「ちゃんと冷蔵庫があるんだ。そこにお肉とか頭は仕舞って、あと秘密だけどね、皮がほしいって人が居るんだよ」
「じゃあ他のものは?」
少し考える素振りが気になったけれど。
「内臓は少し洗って犬の餌。僕は犬派なんだ。お肉はちゃんとした料理にしているよ。頭は色々とね。うん、そのうち見せられるといいな」
彼はいつからこの仕事をしていたのかな?だから猫が町からいなくなっても皆は気がつかないで野良猫が消えたと喜んでいたのか。
「でもさ、皮を欲しがる人なんてどうして居るの?」
「彼は猫の皮を縫い合わせてお人形を作ってるみたいなんだ。普段から人形遊びが大好きまたいでさ、色々なものを集めているみたいだよ。でもまだ一度も見せてくれた事はないんだよな」


彼とはいつも夜にだけ会うようにしていた。昼間の明かりを恐れていたのは多分僕の方だが夜の街が寝静まる頃に僕達は二人でただブラブラと街を歩くことでいくつものものを共有するようになっていた。彼のやろうとしている事を少しづつだけれど知るにつれて興味は膨らむばかりだった。街を歩く一番の目的は猫を探して処理することだったけれど、いつも見つかるわけもないからそんな時はくだらないことをして時間を潰すことになる。
「君はいつも何をしているの?」
街灯の明かりも暗い路地裏の階段に座りタバコが吸い終わるまでの間、彼はなんとなくといった感じで時間を潰す。
「僕はいつも何をしているんだろう。考えてみると大したことしてないな」
そんなことを言うなと彼は言いたそうな顔をして、だけどかすかに笑いにごまかすようにも見える。
「僕はね、人間という物が大好きなんだ。いつも人の生活を覗き見るような生活をしているとさ、誰の何処を切り取ったとしてもそこにはその人の世界が存在している事に気が付いてくるんだよ」
それほど美味そうには思えない表情でタバコの煙を吸うとため息混じりに息を吐く。
「この間見た子はね、とても悪い癖を持っていたんだけれど、それなのにその子は悪びれる様子もなくそれを自慢するように僕達に喋るんだな」
「悪い癖?」
「うん、彼はもう救いようが無いと思うよ」
僕は彼が語る悪いことについて考える。どうしてだろう、それほど矛盾した考えではないと知ってあるはずだけどそこにはまだ僕の知らない物語が隠れている気がしたんだよな。
「最近も武勇伝を語っていたけれど実際はただの痴漢だったという落ちの話を笑いながら話していたからね。自分よりも弱い人の自己顕示欲をくすぐっていい気になりたい心理につけこみアルコールで溺れるのを煽るみたいな事をするゴミのような奴だったなぁ」
「誰のことなの?」
その時彼が学生だったことを思い出して、僕は普段どんな生活をしているのだろうかと、教室でノートをとっている姿を思い浮かべた。その姿は無理もなく自然とした姿で浮かんだようだ。
「最近は友達ごっこに忙しいみたいだけれどいつまた浮気心が再発してしまわないか興味深く眺めているよ。でも、そろそろ捕まってしまうんじゃないかな」
二人でいると夜の闇が深くなる。肌寒さはひしひしと骨を軋ますような冷たい風か吹き抜けていく。結局その日はそのまま僕達二人は寒さに負けて家に帰った。別れるときには次の約束として新しい出会いを約束した。

彼は一人で暮らしていたんだっけな。そこから見える景色は小さな街を見下ろすだけのつまらないものだと彼はよく言っていたけれど、僕が見る限り自分たちの住む世界を知ることが出来るだけでも価値があるはずだとは思っていたが。
「どうせこんな物は全て偽物だからね。いつ無くなったとしても誰一人悲しむ人なんて居ないんだよ、少なくとも一度寝てしまえば忘れられてしまうような物にすがりついている」
街を吹き抜ける雑音があまりにも冷たい。
「ただ僕にはその偽物が大切な物に思えるときがあるんだな。みんなマスクをつけて生きている、だけどその下では色々なものを隠しているし、夢も抱いている。だからそんな見えない物が僕にも見えないかなと興味があるんだよ」
ベランダから火のついた煙草が落ちていく。火の粉が縁にあたってきらめいた。
「君はまだ見たことがないんだね」
「どういうことですか」
「僕には昔から不思議な勘の良さがあるって話はしたかな?それこそ誰もが隠したがるような物を見つけてしまう運のようなものがある事。そしてそれに気付いた人間が虚飾を真実に見せようとしてつまらない嘘を重ねる姿を晒してしまう醜さを見る話」
他の話で聞いたような気もしたけれど、それだと彼の目に僕はどんな人間に見えているのだろうって気になるよね。
「大丈夫、僕が君に期待しているのは友人としての信頼だから、君に裏切る気持ちが生まれるまでは僕も君の事を信頼しているよ」
「こわいね」
月明かりが街を照らしていた。

僕達の前に現れたその人は想像よりも年上で威圧感がひしりとしていた。でも体は小さかったけどね。服も髪型も汚れているし、手入れのされてない無精髭は頬のあたりまでごわごわと伸びている。でも、その体はみっちりと服の中で張り詰めているのがよく分かった。
「また変な子を見つけたみたいだな」
声だけは恐ろしく優しい。
「オジさんは僕に色んなことを教えてくれたんだよ。あと革を取引してくれたりもあるからたまにちょっとしたお小遣いくれるし」
「お前は金に困ってないだろ、ネットでカチカチやってるくせに」
そう言って彼の冷蔵庫を確認している。もちろん保存用に使っている奴。少し小さいけれど中身はすでに溢れそうになって困っていたからな。
「この分だと毛皮もカバンに入るギリギリだな」
横のダンボールから消臭剤の詰め物を除いて重さを確かめる。
「今日は黒い猫もいたからあれ、くれるよね、約束してたし期待してるよ」
その時男は少し困ったような顔をしていたと感じたがすぐに笑い声が部屋に響いた。やれやれといった感じで事更に大げさな動きで男は懐から小包ほどの袋を取り出して彼に放り投げた。
「そんなに雑にされると困るな」
「君がそんなものを手にしてどうするつもりなのか知らないけれど、僕は余りおすすめはしないよ。それも自由だとは思うけどね」
二人の間でかわされる会話を僕は聞いていただけです。

パチンパチンとゴムが弾ける音が公園に響く。土の上に転がっている猫の身体にパチンコの鉄球が撃ち込まれる音、ゴムを引く感触も手の中で馴染むから心地よい。昔はエアガンでやったけど最近は狩猟用に作られたものの方が手っ取り早くてリアルだ。肉に食い込む音を直接感じているような気もするし一方的な暴力には中毒性がある。ただ苦しむことも無く楽になれるから僕も優しい気持ちになれたけれどそれなりに弾丸は肉に食い込むこともあるし、頭に当たれば骨の砕ける音もする、その音は。

そんなことをしてると背後から人が近寄る足音に気がついてヒヤリとするんだよ。だってこんな時間に出会うやつと言ったらほぼほぼ見つかりたくはない人達だからね。仕方なく急いでその死体は池の中に蹴りこんで逃げることにした。少しだけそいつがどんな顔をしたやつなのか気にはなったが。

その後も相変わらず僕の生活は常に一人だった。
もう彼と会うことが出来なくなり一人で時々街を歩いては出会う前と変わらないことにも気が付いていた。それまでと少しだけ違うのは細いしっぽを集め始めたくらいだった。
別に執着はないけれどそれの血を抜いて乾かすと思っていたよりも長持ちするからそれを集めて廃棄されてた小型の冷蔵庫に隠しそれを更に森の中に隠して、人の知らない小屋の陰に。

そんな時、街の灯りが1つ増えた。
夜毎に灯る光の束は星明りの空に呪いを放つように冷めた炎を煌めかせている。
誰かに伝える事でもあるかのように。
彼の姿が街から消えた。その姿は女性なのか誰も知らない。


外の景色は冷たく空を見れば雪が渦巻いている。そのままだと今夜中に積もるだろう。僕は夜の森で捨てるはずのナイフを見ていた。
こいつは彼にもらって大切に使っていた安物だけど、最近は血糊からか錆が取れず刃の部分を折り畳めなくなったり切れ味も面白くなかった。
誰かに監視されている気もしていたから最近は仕事が出来なくもなっていた。このままだとオジさんにまで迷惑がかかるかも知れない。それだけは嫌だった。

僕は今闇の中に居るのか。
多分違う。でもとてもつまらなかった。
彼がいた時ほどの開放感を手にすることはもう無いだろうし、だから僕は雪の降る街で街灯の下に立っている。その内迎えが来ると信じていたけれど、そんなものは永遠に来ないとも分かっていながら。だから僕は目の前にいる人々の顔を覚えることにした。そのうち彼らと遊ばなければいけないと信じているから。

冷蔵庫はすでに池の中に捨てた。それをやったのは僕じゃない。誰なのかは知ってるけれど、確かめる必要もなかったのでそのままにしている。あのことを誰も知るものはいなくなり、僕は少しだけ笑えるようになっている。

かれこれ半年ほど僕は部屋に閉じこもることにした。そこでは毎日繰り返される世界に満ちた狂気を見ているだけだったけれどそこに僕は彼の姿を垣間見ていた。笑顔で殺し合う人々の営みを美しいと感じなければ許されることのない世界。彼等は家族という名の悪魔狩りを毎日テレビの中やスマホの中で繰り広げていた。

冷たい水の中から丸い瞳が僕を覗いているのが分かる。彼女達は僕達の仲間でもあり彼等の象徴でもある。だからいつも水底から宙を見上げてキラキラと笑っているのを知っている。沈められた冷蔵庫の意味を彼なら知っているはずだった。

赤い手のひらが頭から消えない。これは誰のぬくもりだろう。
「どうして私が殺されなければいけないの」
人が死んでる。
「君は彼を殺そうとした。それだけは僕には許すことができないんだ」
じゃあどうして彼女はまだ生きていたのか。
「私が彼を殺したわけじゃない」
だけど君は彼の姿を見てしまった。
「僕はただ命じられたことをするだけだから」
そうすることでこの世界は上手く回るようにできている。
「私だってその中の一人じゃないの」
それは違う。
「君には少なくとも選ぶ権利があったはずだ」
だから僕達は君達を犯す。

潰してしまえ。

桜の枝にワイヤーが吊るされて、その先に猫が脚を括られている。無様な鳴き声を上げて助けを求めるが誰の耳にも聞こえはしない。
「ニ゛ャア゛ア゛ァァ、、、」
ぐるぐると右足を支点にして回る姿は部屋を飾るイミテーションのようにも見える。でもこいつはそのままにしていたら糞を垂れるし汚臭を放つ。三毛斑の雑種が罠にかかってあわれに吊るされていた。切り取られた尻尾の根本からは赤い血がぼたぼたと落ちて桜の根本を汚している。

僕達は公園のトイレで飲み過ぎたアルコールを全て吐き出した。

今日もまた人の命が消えていくね。
「絶対に貴様らを許さないから」
女の声はすべて記録されている。
「ちゃんと金払うなら何してもいいから」
その言葉を最後にどこかへと売られていく少女。現実に存在していた彼女はその日を境にSNSからも消えた。
「私は興味ないから、お金とかも別に困ってないしオッサンとかむり」
誰彼構わず股を開いておきながらそんな事をつぶやく女。
「ちゃんと割り切りできる人なら大切にするよ」
ソープに肩まで浸かっているのに純愛を信じている。

彼から送られてくるメールは全て最後に人が言葉にする願望でしかなかったけれど、それでも愛おしいと彼はいつもつぶやいていた。だから僕もそれを理解することにしたんだ。

地下鉄の中はコロナだというのに混雑している。人の顔を見るのはもう飽きてしまった。どこを見ても人の顔。その顔にはどれも自分の人生を生きるために生き生きとして輝いている。少し疲れたくらいのサラリーマンには好意を抱かないでも無かったけれど、突き詰めてしまえば彼等も誰かを殺していることに変わりはなかった。そこに違いがあるとすれば彼等はマスクをつけていると言うこと。

繁華街の雑踏にまぎれて今日は糠雨がまとわりつくように降っている。もう少しだけ待つことができれば、彼から貰った力が役に立つ気がした。

僕がしたことではないと分かっています。でもこれは僕の罪だとも理解している。だからこれから登る階段も恐怖を感じることなく登るだろう。惜しむらくは僕自身がそれを確認することが出来ないことだったが。

今日も彼は僕と会話をしている。


追記:この物語は処理できてなかったプロットだけを積み重ねるだけで一つの話が出来上がるかと言う実験的なフィクションです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?