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あかい、くに

202101192000

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死にたくて堪らない男がふと目を覚ますと、そこは異空間だった。
どうやらこの空間にいる者は皆先の大火災で死んだらしいのだが、何だか黄泉の国へ行けない蟠りが有って皆々ここに留まっているらしい。
周囲は阿鼻叫喚で、肉か血か分からないピリリと鼻を焼くむせかえるような臭気が漂っている。
しかし男は実に陽気だった。
二十何年間生きてきて今日が最高の日だったのだ。
なにせ、ようやく死ねたものだから。
男は周囲のヒトらしい形をしたもの全てに順繰りに声をかけて回った。「やあ、今日は最高の日ですね!!」

するとすぐ近くにむくむくと湧いて出た餓鬼のような男か骸か判然としないヒトが、「弁えなさい!不謹慎な!」と痛くお怒りになった。
骸が言うには、男の命は周囲の貴いヒトビトとは雲泥の差で、本来であれば彼等の死を哭するべきなのだそうだ。
そうは言っても、周囲の赤黒いねちゃねちゃしたものにおよそ尊いなんていう感情は湧かないので、男は骸を無視してすいすいと赤黒い轍を抜けて遠くへ来た。

そこには、先ほどと同じように得体の知れない存在が居て、その周囲に辛うじて目鼻の穴ぼこが分かるくらいのヒトビトが群がっていた。今度のボスはウェーブのかかった長い髪の神父であった。
神父は男の姿を認めると、すっとこちらへ歩を進め、ぐっと距離を近付けてきた。思わず脇へ逸れようとすると、意外にも神父はそのまま前へ踏み出し、そこではじめて彼の目的が自分の後ろに引っ付いてきた骸であると知った。
骸は神父の長くびろびろして引き攣れた脂肪の糸に取り縋って、おいおい泣いた。「私は取り返しの付かない事をしました」
神父は優しく骸を抱き、骸の顔の四つの穴ぼこに脂肪の白い糸がぴらぴら揺れた。言葉は要らないらしかった。
骸は確かにさめざめと泣き続けているようだったけれど、それきりしばらく神父と骸は元々一つであったように固まってしまったので、男はふいにつまらなくなって他所へ行く事にした。

男は赤黒い世界を探検してどこかに自分と同じように心底喜んでいるヒトが居ないものか探したが、とうとうそんなヒトは見つからなかった。
一人二人、「死ねたは良いがこの死に様では……」とぶつぶつ言いながら天井の見えない白壁を上へ上へと這っている肉布は見つけたが、何だかおっかない気がして話しかけないうちに肉布はずるり、べちゃ、と落ちて赤黒い肉塊に混ざってあっという間に分からなくなった。

それからしばらく歩いたが、どこへ行ってもどこまでも赤と黒とが続くばかりで、世界の終わりがまるきり見えない。
ヒトビトはてんでばらばらに白い空間をずりずりと這ったり、くっついたり、ささめいたりしている。この世界のコミュニケーションらしい。
男はほとほと飽き飽きしてきた。
これだけ同類がいるのに、誰も今日という最高の喜びを分かち合ってくれない。それどころか、自分だけどうも仲間外れのようだ。
肉になってまで疎外感に苛まれるなんて馬鹿馬鹿しい。その辺の同類の塊に座って脚部をぶらぶらさせていると、「もし、」と声が聞こえて、背中の辺りに冷んやりと引き攣れた筋肉の感触がした。

「神父さまを連れてまいりました」
「神父?」
見ると、先ほどのウェーブのかかった長い赤髪の神父が目の前に立っていた。後ろには彼の長い裾に絡まるようにどこまでも赤い肉が続いている。花嫁のドレスのトレーンのようだ。
「キョウカイのお時間です」
「教会?」
「いいえ、教誨です。神父さまはあなたを教えさとすためにいらして下さったのです」
「わざわざ、私のために?」
そこで初めて神父の方を仰ぎ見ると、彼は高く綺麗な鼻と形良く張り出した額を持っていて、なかなかの威厳があった。しかし、その喉はまあるく抉れていて、恐らく喋る事はできないと思われた。
「しかし、教えさとす声も持たないのに、この異空間で何ができると?」
「身を寄せ合うのです。字も声もなくとも、神父さまはあなたに祝福をくださいます」
「私を祝福するだって?」

そんな事は到底ごめんだった。
男は咄嗟に逃げ出した。ヒトビトを蹴散らし、赤の世界からひたすらに逃げ続けた。
そのうち、とても暑くなってきた。身体が熱を持っているというよりは、世界全体が燃えているようだった。まるで先の大火災の最中のようだ。鼻腔が焦げる臭いで、男は大火災の最初の火を思い出した。

振り返ると、神父の大きな塊がいた。
神父のトレーンがゆっくりとうねり、私の中に隠れてしまいなさい、とでも言うように男を包もうと迫ってくる。
男は異様な光景に呑まれて、そっくり身体を飲み込まれてしまった。
神父のトレーンの中はひどく生暖かく、真っ暗で、とにかく居心地が良い。
そのまま溶けてしまえ、と思ったが、右奥にゴリゴリと触れる骨のようなものがあって、そこだけどうも収まりが悪い。
半分眠った頭で、えいやっと、引き抜くと、遠くから声がした。
「お時間です」

男が再び目を開けると、男は今まさに赤黒い世界の天辺から墜落していくところだった。
眼下にはヒトビトが叫び声をあげながらめちゃくちゃに伸び縮みしている様子が窺える。
彼らの敵意が誰に向いているのかを悟った瞬間、男はこの世界の成り立ちを理解した。

実のところ、この世界は男を殺さねば開かれないのである。
男を殺さない限り、大火災に溶けた憐れな魂達は永遠にこの白壁の底で犇めき続ける事になっているのだ。
しかし、ここに一つの矛盾がある。
そう、男もまた既に死んでいる。
一度死んだ人間は二度と死ねない。
つまりは、男は永遠に殺され続ける運命なのだ。
男はこの世界のルールに気付いてしまった時、ようやく自分の火が人々をヒトビトに変えた事に気が付いた。
無い足がガクガク震えるが、死ねないものは死ねない。
自分はなぜ死んだのか?
死ぬ事で逃げたかったのだ。
死んだらどうやって逃げれば良い?
もう死んで逃げる事はできない。

男は神父のトレーンの裾を掴もうと空中で必死に踠いたが、どうした事か右手が開かない。
見ると、輪っか状の骨がぎっちりとハマっている。驚き凝視すると、骨は五センチ程度の大きく手を合わせ祈る人の上半身のような形をしており、男はぞっとして腕をぶんぶん振り回した。
必死に上を仰ぎ見ると、神父の喉のまあるい穴と目が合い、男はぞっとして自分の喉に触れた。
喉は正しく喘鳴した。
「あ、」
男の視界が赤黒く染まる。肉塊達がてんでに叫んでいる。
「やあ、今日は最高の日ですね!!」

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