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『』

201902261427

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相も変わらずよくこんな話ばかり書くと思う。

とにかく人が起き出す前に書かなくてはいけないと必死だ。
時刻はもう少しで5時。

本当はもっと早い時間にしたかったのだが、気付いたらもうこんな時間になってしまっていた。
少し動揺していたのかもしれない。

**
午前3時


夏季休業中。
寮の自室。

ここ数週間で癖になった自堕落な昼夜逆転の生活。
外が明らむまで起きている事も増え、目の下には隈がくっきりと貼りついて取れない。気分も変調だ。
自律神経の調子を整えるためにあんなに生活リズムを気にしていた筈が、まるっきり逆をやってしまった。
だから夢を見てしまったのだろうか。

ベッドの頭側には冷蔵庫。
共用のファミリーサイズ。
冷蔵庫の前、二人のスペースを仕切る様に室内干しが立っている。
先輩の持ち物だ。

赤黒いものが見えた。
午前3時。
室内干しに人?の様な赤黒い塊が吊り下がっていた。

私は大変驚いたが、コレを片付けないと眠れないらしい事を理解した。

**
午前3時4分


ベッドから起き上がる。
けったいな事だ。
そんな兆候は有っただろうか。
いや、まだ決まった訳ではない。
確かめなければ。

ベッドに座り、
床に足を下ろし、
立ち上がり、

室内干しに近付いた。
ものの数歩の距離。
赤黒い塊に触れる。

ひんやり。
ぬるっ。
ヌメヌメ。
どろっ。
ぐちゃ。
ずろっ。

思いの外表面は脆そうだ。
すぐに崩れて剥がれ落ちる。
手に付いたぐちゃっとした固まり。
非常に不愉快だ。
素手で触るべきでは無かったと激しく後悔した。
服に付くのもごめんだが、今着ているのは幸い寝巻き用の古着のボロいワンピース。
処理の際同時に処分すれば良いか。

……困った。

依然赤黒い塊は質量を殆どそのままに室内干しにぶら下がっている。

**
午前3時半

「やるか」
誰に言うともなく呟いた。
夏休みの宿題と同じである。最初は手の付けられない量に見えても、片付ければ片付けた分だけ片付く。
要はやり始める事が重要なのだ。

手始めに市指定のゴミ袋(大)を用意する。
これだけでは透けてしまう。

迷った末に、
切り分けて
分散して
ポリ袋に詰めて
何重にもくるんで
大きいゴミ袋に入れるのが最善だと思った。

すり潰して浴室の排水溝に流すという案もあったのだが、ここは百人足らずの人間が暮らす学生寮である。皆夜中でも構わず風呂に入る。
今の時間だとちょうど居酒屋バイト組がちらほらしている時間帯だろう。事が事だけに人に見られる手段は諦めざるを得ない。
しかし少し残念だ。うちの女子寮は家事スキル皆無な箱入り学生たちの自治により、黴だらけの埃まみれ、人間の数よりゴキブリの数の方が多いくらい。
共同の浴室ときたら、明らかにナマモノ由来の酷い臭いが四六時中していて、皆必死に息を詰めて身体だけ洗って爪先立ちで出るのだが、この前十五分ゆうゆうと入ったやつが垢まみれの赤い床に倒れているのが発見されて、ちょっとした騒ぎになったそうだ。
元から死臭がして浴槽に茸が生えているくらいだから、きっとすり潰した赤黒い物体の五十や六十リットルくらい大した事ないに違いない。
ちなみに男子寮は体育会系の規律正しい男子学生たちの自治によりかなり綺麗らしい。

そういえばコレ、匂いはどうなのだろう。
ハウスダストのアレルギーにより寮内では私の鼻はほとんど機能しない。
見かけは生臭そうではある。
余裕があれば猫砂でも混ぜるのだが。あれは大した発明品だ。猫砂があまりに有能すぎた為に、猫が隠した糞尿に気付けず、何度母親にトイレ掃除をサボったと怒られたことか。気付かないものは仕方がないのである。お陰で母の帰宅時には即座にトイレに駆け込む癖がついた。すると、お迎えに出ない、買い物袋を持って行ってくれない、と怒られるのだ。人生はどうにもママならない。
実家の思い出はさておき、乏しい寮暮らしの生活に一リットルあたり百円前後もする猫砂なんて贅沢品は到底無い。百円あったら砂を買うよりチョココッペパンを食う。先輩だってそう言っていた。
わざわざ買うのも怪しまれるだろう。
何か誤魔化しに混ぜられるものが有れば良いのだけど。
雑巾に下ろすのも厭わしい粗品のボロいタオルとか気休めに混ぜてみようか。あいつすぐビリビリに破れて手を擦るハメになるから嫌なんだよなあ。
あとは手酷い鼻炎でゴミ箱を瞬時に満杯にするティッシュの山である程度誤魔化せるはず……そんな大きさだろうか、これ。
割とかなり大きいのだけど。

赤黒い塊は相当の大きさだ。
室内干しは私の身長を軽く超える。一メートル八十センチくらいは有るだろう。
片側には、ハンガーが十本足らず、シャツやスウェットが三着ばかり掛けてある。
その反対側にずんぐりとしたフォルムのそれがぶら下がっている。
縦に一メートル、横に六十センチは間違いない。歪な円筒形。
正直室内干しが立っているのが不思議なくらいだ。
先輩は物をそうそう買わない代わりに良いものを選ぶタイプだと自分で言っていたから、耐荷重五十キロくらい優に有るのかもしれない。
いや、そんな室内干し有るか?
普通のハンガーラックだとだいぶ頑張っても精々三十キロくらいじゃあないだろうか。
世俗に疎い弱冠十九の小娘にはよく分からない。

近寄ってよく嗅ぐと、微かに生肉らしい臭いがする。血抜きはある程度してあるようだ。
消臭剤を四方八方から浴びせてみた。
少しだけ匂いが沈黙したように思う。
この分なら、後は袋の口をしっかり縛って、全体にも入念に消臭剤を撒けば当座は問題ないだろう。

問題なのは……切り分ける事だ。
骨とかないだろうか。
赤黒い塊に骨が有るかはさっぱり分からなかった。
ビニール手袋を嵌めた手で再度触れても、
ぐちゃ、
ずるっ。

表面が剥がれるだけ。
いよいよ赤黒い塊は原型を留めない状態になってきた。

**
午前4時

勿体無いかと出し惜しみしていたのだが、包丁を使う事にした。
包丁以外に塊を切断できそうなものが無かったし、考えてみれば百均の包丁風情欠けようが折れようが大した問題じゃないわ。
むしろこれを機にもっと切れ味の良いものに買い換えるべきだと、そう思う事にした。
事実キャベツの芯なんか驚く程切れなくて、無理に力を入れるとますます刺さって一寸も動かなくなって往生していた。
うん、やっぱりこの包丁とは今日でおさらばだ。

赤黒い塊にザクッと刃を入れる。
やはり表面三センチ程度は楽に刃が沈んだ。
腕にグッと力を入れ、押し切るようにして刃を沈めていく。
切れ味の悪い刃の鈍さが手の感覚でよく分かる。
時々変に突っかかる感じが有るのだ。
ただでさえ時間が無いと言うのに、ままならない包丁に苛立ちを覚える。
睡眠時間の変調故の短気も手伝って、私のストレス感度はうなぎ登りだ。
手付きが少し荒くなる。
早速動かなくなった包丁を力任せに揺すぶる。
びちゃ、と何かぐじゅっとしたものが跳ねる。
よりにもよって胸らへん。
暗がりで焦げ茶色にシミが広がっていく。
大変気分が悪い。

しかし、百均の徳用七十枚入りのビニール手袋は酷く薄い。
何だか素手で触るよりいっそ生々しい気さえする。
いかにも服に付いたら簡単には落ちなそうな粘つく脂っぽい感触に、流石に泣きたくなってきた。
よく考えたら古着のボロとは言え、この服そこそこ気に入っているんだけど。
何かもう一枚くらい上にボロを羽織っておけば良かった。あの一度きりしか使ってないコンビニのカッパとか。
いや、それはダメだ。
あんな通気性を一ミリも考慮していないガサガサしたものを羽織ったら、動きにくいやら中が蒸れて暑いやらで動く気力を削がれそう。室温三十二度だぞ。
そこにむせ返る生臭い赤黒い臭い……酷い想像だ。
真夏の夜の蒸し蒸しした暑さは生きる気力すら削いでいく。

そう、このオンボロ寮は二十一世紀にはあるまじき事に、冷暖房の類が無い。空調もヒーターも部屋の換気設備も何も無い。
虫と同衾する覚悟で夏草の絡まった網戸を引き開けるくらいしか抵抗する術は無いのである。まあ正直なところ閉め切っていてもダンゴムシはそこらじゅうにいるし……。
唯一男子寮と女子寮を繋ぐ食堂だけに冷房があるので、夏の間はワンダーフォーゲル部の部長がテントを張って寝ているくらいだ。
しかし何故ワンダーフォーゲル部なんて洒落た名前にしたのだろう。山岳部でも良くないか。いやでも確かにワンダーフォーゲル部の新歓は花見酒と洒落込んでなかなか乙だった。サークル名をカタカナにするくらいでイケてる団体になるのなら悪くないのかもしれない。
まあ寮費の安さで自治寮を選んだ時点で素寒貧なのでとても登山グッズを揃えられず入部は断念したが。
噂によると部長のテントは二人用らしい。冷房の魅力に釣られて一夏のアバンチュールがあるとかないとか。モテにもいろいろあるものだ。

作戦を切り替え、包丁を逆手に持って塊を抉っていく。
気分は縄文人の狩猟。
ガッ、ガッと肉を抉り、削いで、とりあえず横にあった手近なビニールに小分けに詰め込んでいく。
そこら中にDNA資料が飛び散らないようにカッパを室内干しにぐるりと巻いた。何故か部屋から三つ出てきたので一周分に十分事足りた。
ビニール傘もカッパもなぜ気付かぬうちに増えていくのだろう。そしてなぜ使う時にはどちらも手近に無いのだろう。長く解明されない謎の一つである。
このぼんやりとした謎に比べれば、目の前の肉に刃物が刺さる感触の方がよほど現実味がある。

努力の甲斐あってか、赤黒い塊は急速に萎み続けていた。この分なら朝までには間に合いそうだ。

**
午前4時48分

切り分けて
分散して
ポリ袋に詰めて
何重にもくるんで
大きいゴミ袋に入れる作業が完了した。

朝までには到底間に合わなかった。とうに遠くの空は白く明るさを増しており、そろそろ日が昇るだろう。
この分なら下手に早朝のゴミ出しで目立つより、八時台のゴミ出しラッシュに紛れ込んだ方がリスクは少ない。
赤黒いべちゃべちゃが飛び散ったカッパを燃えるゴミ袋の中に混ぜ込んでしまったのは分別ルールに違反していて少し胸が痛むが、生ゴミがついたプラスチックは燃えるゴミ判定で良かったような気もするので何とか容赦してもらいたい。

赤黒い塊は結局市指定の四十五リットルゴミ袋二つ分になった。
途中から思い出して臭いや見栄えの誤魔化しになりそうなものを混ぜたり、談話室から古新聞を取ってきたりしたので、実際の質量は一つ半くらいのものだと思う。

ここまで片付けるのには実に苦労が多かった。
共同調理室のミキサーを拝借しようとして、私の極度の料理下手を知る同期に激しい抵抗を受け諦めたり(ダイエット用のスムージー作りに欠かせないらしい、もし壊したら弁償だ、と言われると流石に食い下がる事はできなかった)、
談話室の古新聞を探していたら、共有スペースの皿を割った下手人にされかけたり(七枚見当たらないとのことだったが、私が割ったのは四枚だけだったので頑として突っぱねた)、
早起きすぎる近所住みの調理のオバちゃんにお麩を押し付けられたり(以前オートミールを大量買いしているところを目撃されたためと思われる)、
とにかく大変だった。
心配しなくともオートミールは残念ながら今朝は食べられないのだ。なぜなら同室の先輩が私の牛乳をすっかり全部飲んでしまったから。さっき冷蔵庫を開けて愕然とした。飲まれる事を見越して二本買っておいたのに。
そういえば先輩はどこへ行ったのだろう。まあいいか。
私はいつものように机に向かい、雑記帳を取り出した。

**
『ここまで作業してわかった事だが、赤黒い塊には骨が存在しなかった。
どういう過程でここに六十キロ程度の塊がぶら下がっていたものか、全くもって不明である。
塊は中央の支柱と底面の鉄板に支えられており、』

「ただいまー」
振り返ると、そこにはハーフパンツを履いた先輩が立っていた。
「おかえりなさーい」
「お、起きてたんだ。文芸部の締切?学園祭でなんか出すの?」
「そんなところです」
何の気なく返事してそのまま机に向かおうとして、ハッと気づく。
「先輩、あの、この室内干しにあった肉って……」
「あー!そういや吊るしっぱなしだったか」
ええとね、と先輩は後ろ手で頭を掻く。

「ドネルケバブグリル機が買えなかったんだ」
「なんですって?」
「本場ドイツから仕入れると二十万円ちょっとするらしくてさ……流石に学園祭で出せる金額じゃなくてね。うち極小サークルだからカンパ一人四万以上になるし。それは流石に自治会に目つけられちゃうしさあ」
「なるほど……じゃあ肉はどうするつもりだったんですか?」
「大学の裏手の森で焼こうかなって。枝に刺した巨大生肉を焚き火で焼くの、人生で一回はやってみたいじゃん?」
「確かに……」
「焚き火とかした事ないけど、うちの大学ほとんど森に埋もれてるようなもんだし、半分くらい焼けてもオープンキャンパスで見つけやすくなるくらいで、大体問題ないっしょ!」

流石に悪いと思ったので、私はきちんと説明して謝る事にした。
「先輩、あの、コレ……」
「ええっ!ケバブバラバラにしちゃったの!?何で!?何でジップロックに綺麗に小分けにされて、え、これオートミール!?」
「猫砂が無かったんで……」
「何で猫砂!?えっ、こっちはお麩じゃん」
「何かいける気がしたんで……」
「まーまーまー、とりあえず焼けばいけるんじゃね!?予定変更だけどバーベキューにすればいいよ、焼こ!ケバブ!サボろ!授業!ソース買いに行くよ」
「はい!」


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深夜に
目が覚めたら
室内干しに
ケバブが
ぶら下がってた
**

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