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わくらば 後編

202007131052

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ハッと気付いて部屋を見回した。
ざあっと血の気が引いて、部屋の温度が固く冷えていく。
このピンポン、確かに鳴っているのじゃないか。
しかも気のせいでなければさっきも一度鳴っていなかったか?

おそる、おそる玄関に向かって、途中で気が付いて念のために包丁を、出しかけて、取られて子どもに万一があったら下手に出さない方が、と考えてやめて、結局盾にも使える一番使い慣れたフライパンを後ろ手に握って、
覗き穴を覗くと誰もいない。

ふうーっと息をついて、安心したような、これだけクリアに聞こえたのに本当に思い過ごしだろうか、と不安の靄が湧いてきて、もう一度覗くと、確かに誰もいない、と、

ピン、ポン

飛び上がりそうになったのを必死に堪えて、ままよ、と扉を開く、と、
チェーンの隙間から年長さんくらいの男の子の不審げな顔が見えた。

「あの、お父ちゃんいますか?」
「お父ちゃん……?」
まさか。まさかあの男の新しい女の連れ子なのか。でもどうしてここに。どうやって?
「どうしてここに来たのか分からないけど、ここにはお父さんはいません」
「いないの?」
「ええ、来た事もないです」
そこまで答えて急に不安になった。
「それとも、近くまで一緒に来てたの?」
「ううん」
案に相違して男の子は首を振った。
「僕前までお父ちゃんとここに住んでたんだ」

**

「どうぞ」
冷えた麦茶など無かったので諦めて氷水を差し出す。せめてもの気持ちで氷は多めに入れておいた。大の大人が困っている小学一年生につっけんどんな対応をしたというのは、あまりにもあんまりで気まずい。
未成年略取の罪に問われるのが怖くて中には入れられなかったので、ひとまず百均の折りたたみ式の足台に座ってもらった。夏とは言えまだ陽が出たばかりだし熱中症の恐れはないだろう。あとは警察に連絡するかなのだが……。
「ええとそれで、あなたのお母さんは……」
「……」
ダンマリである。
通っている小学校や名前についてはハキハキと喋ったものの、身元引受人の話題には一切答えない。受け取ったグラスの氷と睨めっこしながら水を飲むでもなく黙っている。
「じゃあ、お父さんは……ここにいるはずだったの?」
「知らない」
「知らないって……じゃあどこにいるんだろう、連絡は付かないんだよね?」
こくり、と頷いた。
「他におじいちゃんおばあちゃんとか、誰かいない?」
「いない」
「だとすると……おばさん警察の人に電話して助けてもらうしかないと思うんだけど」
「……」
「それでいいの?」
「……」
困った。いや構わず警察にかければ良いんだろうけれど、この子のお母さんだって大事になったら困るんじゃないだろうか。
「それか、今すぐおうちに帰ってお母さんとお話できる?」
「……」
内心、グラスと同じくらい汗をかきながら、どうしたものか考えた。今日は日曜。学校に行っても誰もいない。

「ええと、ここにはお父さんを探しに来たって事でいいんだよね?」
「そう」
「最近までお父さんとここに住んでたの?前住んでた人って事?」
「たぶんそう」
あ、父の話題なら喋るのか。
「お父ちゃんはね、」
「うん」
「隠れんぼが好きなんだよ」
「そうなの?」
「いつもこの家のあちこちに隠れて僕を困らせてたんだ」
「この家に隠れるところなんてあったっけ」
せせこましい2Kの間取りを思い浮かべる。洋間が一つ、畳の部屋に押し入れがついていて、キッチンはキッチンと言いつつほとんど廊下。ギリギリユニットバスではないけれど、トイレの中にお風呂の扉がある。浴槽は大人が体育座りを少し緩められるくらいのおまけ程度だ。
「いっぱいあるでしょ」
男の子は不服そうな表情で膝を抱えた。
「カーテンの裏、お風呂の中、ドアの後ろ、ベランダ、それから、トイレと、ちょっと怖いけど、押し入れの中、取り込んだ布団の山の中、冷蔵庫と食器棚の隙間、ここはあったかいんだ、あとは、机の下、」
そこまで言うと不意に目を輝かせた。
「それからね!」
「う、うん」
「凄いんだよ、和室の引き戸ね、少し開けたままでなるべくペタッと張り付いておいて、僕が来て部屋の中を気にしてる間に、スススってそのまま反対の戸を引いて出ちゃうの!お父ちゃんはほんとに隠れんぼが上手くて、」
それきり俯いて黙ってしまった。
私は困り果てた。

「ええと……その、探してみる……?一応……」
「いないんでしょ」
「それはそうなんだけど、いないんだけど、でもほら、おばさん隠れんぼ全然ダメだからさ、一応、ね、折角来たんだし」
家に入って欲しい訳ではないけれど、何とか切り抜けたい一心で言い募った。
男の子が無言で立ち上がったので、私も立ち上がってグラスを受け取り玄関の台に置く。
「あ、娘が寝てるから、コソコソっと……起こさない感じでお願いね」
男の子は頷き、一歩入って周りを見回すと、ペコっと頭を下げ、靴を揃えて脱いだ。
私はソワソワしながら先導した。

「……あ、」
布団の端っこでタオルケットを片足だけに巻きつけて寝ている娘を見て、男の子が小さく声を上げた。
「今日はよく寝てるから、大丈夫、」
小さい声で早口に言うと、
「僕もあのくらいの妹がいたんだ」
ぽつりと溢した。
「え?」
「お腹の中でいなくなっちゃったんだって、言ってた。二人とも泣いてたから、あんまり聞けなかったけど」
「そっか……」
「会ってみたかったな……妹ほしかった」
何とも返す言葉がなく、私は俯いた。
「……押入れは物がみっしり詰まってるし、起きるといけないから、とりあえず洋間に行こうか」

「ベランダ、開けてみる……?」
男の子は頷いて、暗い部屋のカーテンを開けた。
朝陽が差し込む。いつの間にかだいぶ明るくなっていたらしい。
「すぐ見つかっちゃうんだけど、」
「うん」
「カーテンに包まるのが一番好きだった。触るときらきらに包まれて、誰にも見えないから何でもできる気がして、本当はカーテン星人になってるの丸見えなんだけど」
「うん」
「ぶら下がってゆらゆらしようとしてレールが外れちゃって、お母ちゃんのヘソクリお菓子が落ちてきて、三人で一緒に直したり、」
泣いているらしかった。
「一回いくら探してもお父ちゃんが見つからなかった事があって、僕泣きながら探したんだ、僕の負けでいいから、早く出てきてよ、ってあちこちドンドン叩いたけど、どこにもいなくて返事もなくて」
言いつつ、鍵を回す。
「それで、分かんないけど、多分三時間くらい経って、ベランダを開けたら、普通にいたんだ、このへんに、体育座りして本読んでて……」
ベランダには大家さんから貰った植木鉢が一つうっちゃってあった。手入れの余裕がないので虫に食われて葉先が少し枯れている。
「僕すごく怒って、何で出てきてくれなかったの、もう二度とお父ちゃんと隠れんぼやらない、って、」
男の子は葉っぱを指でいじりながら、
「お父ちゃんは、ごめん、ベランダにいると意外と声が聞こえなかったから寝ちゃったかと思って、とか、ついビックリさせようと思って、とか言ってた、イタズラ好きだったからいつものイタズラのつもりだったんだと思う」
「……でも僕許せなくて、それっきりお父ちゃんが隠れても無視して、」
それきり俯いた。
「お父ちゃんはもう僕に見つけてもらわなくていいのかなあ」

「……嬉しかったと思うよ」
私は男の子の顔を見れないまま言った。
「お父さんは、君に見つけてもらって嬉しかったと思うし、今日探しに来てくれて、嬉しいと思う」
「……」
「それ以外は私には分からないけど……」
「……」
沈黙が続いた。
陽は少しずつ高くなって、男の子の顔を照らした。
「おばさん、この木、水あげてもいいかな。多分喉乾いてるみたいだから……」

**

その後、ピンポンが鳴り、男の子が走って出た。訪問者は男の子のお母さんだった。
私は幸い罪に問われないらしく、むしろお母さんの恐縮具合に大いに焦り、私事の要らない話まで口走り、さらに彼女を恐縮させてしまった。
不思議なもので、お互い恐縮するところまで恐縮すると謎の連帯感と安心が生まれるらしく、その後彼女とは少し打ち解ける事ができた。

「あの、また来てもいいでしょうか、というか息子がまたお邪魔してしまうかもしれないんですが……」
朝から息子を探し回っていた様子で顔色こそ悪かったが、来た時より表情は明るかった。男の子の方は母の腕を掴んでもじもじしている。先ほどまでとは打って変わって年相応に見える様子に安心した。
「もちろん構いませんよ。次はお母さまもぜひご一緒にいらしてください」
「本当にありがとうございます、次は娘ちゃんも起きている時に、ぜひ」
「うちのはかなりうるさいので息子さんをびっくりさせてしまうかもしれませんが、良ければ」
「とんでもない、嬉しいよねえ、前から妹欲しかったんだもんね」
「うん」
男の子はもじもじしながら頷いた。その様子が先ほどまでとのギャップで何だか微笑ましくておかしくて、私たちは顔を見合わせてはにかんだ。

二人が帰った後、グラスを三つ片付けた。午前中とは言え既にかなり蒸してきて暑い。ひんやりとした水道水の感触が心地いい。
「ママ」
「えいちゃん!起きたの、いっぱい寝たねえ」
水を止め、タオルで手を拭いて、えいこを抱き上げる。
「えいちゃん、起きた」
「ご飯食べる?」
「食べる」
「じゃあ急いで準備するね、一緒に食べよう」
不意に手にやわらかい温度が伝わる。えいこが私の手をほっぺたに押し当てていた。
「ママ、気持ちいい」
「ああ、洗い物してたから気持ちいいでしょう、ママもえいちゃんのほっぺたやらかくて気持ちいい」
「いいね……」
それきり目を閉じて眠ろうとするので、
「えいちゃーん?おはようするよ、ね、おはよう、ほら!お日さま出てるよ、気持ちいいねー」
ベランダに連れて行くと、えいこは眩しそうに目を開けた。
「葉っぱ、きれい」
「え?」
「葉っぱお水ごくごく、きれいねー」
私は驚いて目を見開いた。
「えっ!?すごいすごい、えいちゃん、葉っぱきれいなの教えてくれたのね!そうよー、さっきお友達が水あげてくれたのよ」
「お友だち」
「そう、えいちゃんのお友だち」
「ママ、友だちは?」
「ママは……」
「……」
「ママのお友だちも、えいちゃんのお友だちと一緒に今度遊びに来るのよ」
「遊ぶ?」
「そう、四人で遊ぶの。えいちゃんに会うのすっごく楽しみにしてたよ」
「いいね……」
「あっ、えいちゃんまた寝ようとしてるでしょ、待って、ご飯食べよ、食べたら目も覚めるから!」

えいこを座椅子に座らせてテレビをつける。ふと思い付いて玄関に向かった。靴箱の下の段に置いてあった小さいゾウさんじょうろを手に取る。
玄関は扉の上の透かし窓から夏の光が入って少し暑いくらい眩しかった。テレビの喧騒と蝉の声が溶け合ってしばらく反響する。
私は一瞬さっきの邂逅を思い出していた。ピンポンは聞こえない。
キッチンに行きゾウさんじょうろをザッと洗うと、ベランダに引き返していって植木鉢の横に置いた。
「ご飯まだ?」
「今できるからね!」
センターには明日電話してみよう。
今日は久しぶりにいい日になる気がした。



わくらば/邂逅
終わり

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