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わくらば 中編

202007131052

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蝉の声が五月蝿くて目が覚めた。
子どもができてから蝉の声が苦手だ。0歳育児の頃を思い出すのだ。
ああまた泣いてる、早くオムツを替えて、いや授乳か、何でもいい、とにかく早く起きなきゃ、でないとあの人が来る、と心臓がバクバクしながら飛び起きて、ああもうあの男は居ないんだった、と複雑な気持ちで暫し呆然とする。
ハッと気付いて横を見て、三歳児がまだ寝てくれている幸運に胸を撫で下ろす。

朝が来る前の時間はポツポツと感傷が湧いてくる。
これに呑まれると今日一日中憂鬱を引きずる事になる、と分かっているけれど思考は止まらない。
思えば何でこんな事になったのだろうか。
私よりも貧しくて困っている人はいくらでもいるだろうけれど、私だってこの先どうやって生きていったらいいかまるで分からない。

子どもがいると手当もあれこれ出るけれど、それ以上に子育てはお金がかかる。
スーパーで泣き叫ぶのを何とか連れ帰るためのペロペロチョコレート代、ひと山まるまる転がして遊んでしまったトイレットペーパー代、買った翌日全部折れてテープで直らなかったクレヨン代、疲れた日にギャン泣きされて諦めて買ってしまったそこそこ高いキャラクターぬいぐるみ、
買い物なんてなかなかできないからストレス発散で気付いたらスーパーの籠にちょっと良いサンデーアイスを入れているし、
服はすぐ汚れるから量販店でドバッと買うけれど、こういう時くらい、とあまり着ない明るい色のスウェットをついでに自分用に買ったら若造りな気がして寝巻きにも持ち出せずにいる、
子どもが牛乳を溢した座椅子を洗おう洗おうと思って余裕がなく、三日経ったらもう捨てて買い換えるしかない気持ちになり、無いとご飯の席に付いてくれないし、と一人言い訳したり、
よく知りもしないママ友にお茶に誘われて、折り悪しく予定もないしこれも付き合いだし、と付いて行ったらケーキセット千五百円、ちょっとどうなの、と思うけれどここで諍う余裕がない、何も言えない、だけれど正直もう何を言われても旦那がいるくせに、としか思えない、
もしかしてこの夏のサンデー代やら合わせたらずっと悩んで買わずにいる食洗機のそこそこのが買えたんじゃないかしら、だけどそんな事は考えちゃいけない、考えたって仕方がない。本当の必要経費だからどうにもできない。
とにかく子育てはお金がかかる。
流行りのおもちゃなんかは到底買う余裕がなくて結局我慢させているのだ。しかもなぜかうちの組で持っていないのは四、五人だけという時がしばしばある。幼稚園ちょっと合わないところに入っちゃったかなあとは気付いているけど、今更空きもないのにどうする事もできない。始業と迎えに間に合う完全給食の園は今のところしか無いのだ。まあ、おもちゃの話はまだ動画である程度付いていけるからありがたいけれど。

だけれど、園に入ってしばらく経つ事だし、娘がまたどうしてものヒステリーでも起こしたらどうしたものか。お友達と関わるうちにねだるもののバリエーションも増えて強度も悪化の一途をたどっている。あの馬鹿高いおもちゃも根負けした私がええいどうにでもなれと買うかもしれない。そうしたら地獄だ。
この先一年は何のお菓子も息抜きもなく、どんなにヒステリーを起こされても三回に二回くらいは徹底抗戦せざるを得ない。そうしたら帰った途端に靴を片足机にぶん投げ、もう片足土足のままで押し入れの布団に飛び込んで行って引き摺り下ろし、ギャン泣きに振り回した手でレースカーテンをぶちぶちと引き外し、窓ガラスに頭から突っ込んで強か打ってギャン泣き、
ぶん回す手足を掻い潜りつつ突っ込んでいって落ち着くまで必死で宥めすかし、打ったところを恐る恐るさすって様子を見て、当然落ち着かないので隣の部屋からぬいぐるみとおもちゃと持ってきて、結局スマホを預け渡して机で動画を見せてようやく静かになり、
ともかくも夕飯の準備、と立ち上がると、足に刺さるのはブロック、床に散らばる人形の服やランチョンマットや台所セット、飛んでったトミカ、畳に捩じ込まれたクレヨン、
ハッと窓の方を見るとカーテンが無いから往来から丸見え、防音性もさして無いボロアパート、今のやりとり近所の人が見たらどう思うだろうか、いやどうでもいい、私以外にこの子を止める人間がいるのか、誰もいやしないんだから、誰もこの地獄をわかりゃしない、ああでもゴミ出しの時に顔を合わしたら嫌だなあ、
そうだ、今晩寝る布団がないじゃない、とどっと疲れて、

待った、朝からそんな事考えたってしようがない、
だけれど、本当にこれでどうやって世渡りしていけば良いのか、いつでも危機に瀕する生活、冬の冷たい皿洗いを日に何度も繰り返すのも、ちょうど良い夏服が全部駄目になったから少し厚手のパーカーで過ごす夏も、嫌で嫌でしょうがない、
本当は私は知っている、あの男が追ってくるはずは無いのだ、
あの人は新しい女の人のところでぬくぬく寄生して楽しく暮らしているはずだから、今更この家をわざわざ探り当てて追ってこようはずが無い。
そういう人なんだ、逃げたら追うし金が無ければ幾らでも追ってくるけれど、次の標的が見つかったらまるっきり音沙汰ない、万一と言えば新しい女に不都合が生じて次のも見つからなかった時に探される可能性があるくらいで、
つまり私は今の生活が嫌で嫌で疲れて嫌いにならないように、わかりやすい恐怖を側に置いているだけなんだ、
本当の本当はそうなんだ、
毎日を少しでも暮らしやすくするためだけに頭の中でピンポンが鳴るんだ、

ピン、ポン

どうしてこんなに不健康になってしまったのか、
曲がりなりにも五体満足で生まれて、私より貧しくて困っている人は幾らでもいるけれど、
それにしたって今、今の私が生きづらい、
それを口にすると人は離れるし、誰もが憐んでいるんだか気遣っているんだか蔑んでいるんだか、誰も私と仲良くしてくれない、
ねえ、私知ってるのよ、私きっと精神障がいか発達障がいか、何かなんでしょう、この前本で読んだ、こんなに思考が散漫で、考えこみすぎるの、おかしいもの、生きてる方がえらいのよ、子どもの健診の時に勇気出して聞いてみた先生には適当に受け流されたけど、私多分足りないのよ、頑張ってるのよ、毎日、
ねえ、私、知ってるのよ、多分娘もそうなのよ、センターの人はああいったけど、きっとこういうの遺伝でしょう、やっぱり育ちが遅いんだ、娘には健康に育って欲しい、やっぱり朝イチでセンターに言葉のサロンの件、電話してみなきゃ、ああでも気が重い、電話は嫌、そうだ、やっぱり行って話そう、直接話す方がまだいい、
ああ駄目だ、今日は日曜だ、お休みだ、おしまいだ、
どうして、他の人も皆こんなものなのか、私ばかり上手くいかないと思っているけれど、障がいかもしれないだとか、そう考えるのは逃げなのか、ああごめんなさい、確かに私が上手く話せないから、うちの子は話すのが遅いのかもしれない、考えこむ癖も散漫だと思っている思考も、皆々こんなものなのかもしれない、
だけれど、本当にこのくらいが本当だとしたら、こんなにもつらいのが生きるという事なのか、
世の中はつらい、消えてしまいたい、鳥にでもなって飛んで行けたらどんなにいいか、ああまた思考が飛躍していると嫌がられる、

ピン、ポン

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