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靴底の温もり

202002110526

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地下の温度はひどく鈍く重たい。


行き交う人々の華やげで気安げなさまを見ると、げに人の世は眩しく。
今の自分はいっそ幽霊か何かであれば良いと思う。
この臭気さえきっと届かないでいればと。
そうやって消え入りそうに沈む反面、
おのれ私だって、という気持ちもある。
今通り過ぎたサラリーマンの時計は、私が愛用していたブランドの廉価版だ。
今はもうこの手に無いけれど。

今日はどうも虫の居所が悪くて、いや実際虱の所為かも知らんが、
痛痒いような吐きそうなむずむず感が停滞していた。
お陰で本当なら虱の皮だって千枚に剥いで渡世しなければならないところを、
今ばかりは虱を捫って当世の務を談じようとしている。
お国が助けてくれれば良いだなんて虫のいい話だけれど、それより他に縋る当ても無いので声高に権利を叫んで居丈高。
底辺が偉ぶるのなんて政治と人権、それに過去を語るときばかり。
分かってるのさ、分かってるから必死で吐いているのだ。

ぶつぶつと隣で怨嗟を吐く声が聞こえると思ったら、それは自分の独り言であった。
私も怨嗟でなんとかエンサーになれないかしら。
しかし、いつからこの自販機と柱の間に挟まって停滞していたのだろう。
古い癖で手首をくるり。
しまった。
今はもうこの手に無いのだった。

瞬間、ふつふつとこみ上げるものが有った。
思い切りよく私はおのれの手首を噛んだ。
いっそ噛みちぎれよ、とばかりに力を込めて、悲鳴をあげた。
悲鳴は実際には喉奥に詰まった断片とくぐもった空気とをふひゅ、と吐き出したようになった。

後から思うとどうしてそんな事をしたのか分からないが、
その時は無性に腹が立っていた。
向かいの柱に挟まっていた同胞が一瞬、ぎょっ、とした目でこちらを眇めた。
通行人が、汚いだけでなく気違いか、と言いたげにさあっと引いた。
視界は暗く。
世界は苦楽。
私は苦しみそのもの。
げに人の世は眩むようだ。
げえ、と吐いた。

手痛い。
私はぞろりと起き上がって、改札の電光掲示板を覗きに動き出した。
身体はひどく鈍く重たい。

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