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わくらば 前編

202007131052

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ピン、ポン

掃除機をかけていたり、テレビの音楽番組を流して洗い物をしていたり、ふとした瞬間子どもの声がサラウンドのように意味を成さないわあわあと襲いくるだけの音声になったりする時、
その裏にうっすらとピンポンの音が鳴ったような、気のせいか気づかれかも分からない一瞬が有って、その瞬間、
ぞおっとあの男の姿が脳裏を過ぎって、もう怖くて恐ろしくて堪らなくなるのです。

必死になって掃除機のスイッチを切り、コンセントを引きちぎるように引き抜いて、そおっ、と、玄関の扉を伺って、
内心貴重品の類はどこにあるか幼稚園への連絡はどうするか、いざとなったら私がここで引きつけて、きっと誰かしらは通報してくれるだろうから子どもはベランダに出して鍵掛けて隔離しておいて近隣の人に救出してもらって、
いやいけない、誰も通報してくれなかったらどうする、土台あの活発な子がベランダから落ちたらどうするのだ、それこそ取り返しが付かない、
そうだまずは携帯を持ってボタン一つでかかるようにして、
いやいやまずは冷静に落ち着いて覗き穴を、
向こうで待ち構えていたらどうしよう、
瞳孔をぴったり付けていると真っ暗で何も見えないとか聞いた事がある、そんなホラー映画みたいな事になったら腰を抜かしてしまうかもしれない、
穴から錐でも刺してきたらどうする、あの人の事だから有り得る、
何を馬鹿な、とにかくもピンポンの音すら気のせいかも分からないのだから、いっそ一思いに覗けば終わりだ、えい、「ママ?」
瞬間、飛び上がってどうにかゆっくりと振り向くと、不審げに私を見つめる我が子の姿があって、
「ああ、何も無いの」。

このやりとりの後にドンッと扉を叩く音がしない事に幾ばくかの安心感を覚えて、すうっと覗き穴を覗いて外の気配を伺って、
やっぱり気のせいね、と必死に心臓に重たい影を伸ばす存在感を追いやって立ち上がり振り返り、
ニコッと笑って「絵でも描こうか!一緒に!」と言ったところが、頬の引きつるのが自分でもありありと分かる。
上がった頬に押されて涙の筋がすーっと落ちて、「えっ、やだ、何でもないからね」とぐいぐい拭って子どもを居間に押してゆき、ガンッと強か小指にぶつかる物が有って眉を顰めると、それはさっきの掃除機だった。
そっか、途中だったっけ……と口の中で呟いて、「いっか!後にしよう、ママえいちゃんと一緒にお絵かきしたい!」と言うけれど、そう言えばここまで娘が何を言ったか全然覚えていない。
頭が真っ白で、全く思い出せない。ハッと気が付いて娘の顔を覗き込むと、娘は不安げな表情、ワッと泣き出した。

ごめんね、ごめんね、と謝るつもりで、だけれど声に出したらむしろ娘がただならぬ気持ちになりかねないから、そうなったらもう、抱きしめて、彼女が安心するまでぎゅうぎゅうと抱いているしかない。
こうして温かい質量を抱いていると、三歳の体温や息遣いが感じられて、
お互い汗まみれでこの夏日に暑苦しいな、だとか、もう随分重たいし力加減を知らないから腰に飛び付かれなくてよかった、だとか、スウェットに砂利まみれの鼻水がぐいぐい押し付けられているから夕飯を作る前に脱がなくちゃ、いいや、エプロンをつければ変わらないか、だとか、そんな俗っぽい考えが湧いてアホらしくて次第に落ち着いてきて、
娘にはまだ難しい言葉や心の機微は分からないのだから、身体が触れる安心感の方がきっと伝わりやすいのだ、などと尤もらしく今の自分の対処に理由付けしてみる。
ぱらぱら読んだ育児本の言葉かもしれないし、子育てセンターの職員さんに教わった言い回しかもしれない。
と、少し落ち着きかけたところで、先週センターの職員さんに相談した記憶が蘇ってくる。

「まだ二語文しか喋らないんですが、」
と相談したら、
お子さんによって育ちはそれぞれだから、娘ちゃんはお友達にも声をかけれているし大丈夫、でもお母さんは心配ですよね、お家で意識して三語文で話しかけてあげてください、真似して覚えるかも、あまり気になるようだったら、今度センターのサロンで言語聴覚士の先生が来てくれる集まりもあって、そうだ後で入り口のチラシを、
と、何だかいろいろ親切に教えてくれたのだけど、何だったか、何かが引っ掛かっている、ああそう、そこで五十代くらいのでっぷり太った職員さんが割って入ってきて、
いいのよ、いつ喋ってもいいのよ、好きな時に喋んなさい、このくらいの歳の時はね、分かってるようで分かってないから、喋って通じないな、って時は、身体に触れて、こうする方が安心できるのよ、ねえ、えいちゃん、隣で自分の話されてそわそわしたわね、
なんて勝手に娘を抱き上げて言い出すから、あの、いけない、私夕飯の準備が、とかおろおろ捲し立てて帰ってきて、そうだ、結局あのオババのせいでチラシをもらい忘れたのだ、
私だって何も調べずに聞いた訳じゃない、もし育ちに遅れがあったら、このままずっと三語文以上喋れなかったら、夜な夜ないろいろ調べたんだ、
それを何だ、あのオババ、他人事だと思って、いや他人事だけど、いつ喋ってもいいだの、ああ私うっかりオババの理屈を借りてきてしまった、腹立たしい、
それはそうと、やっぱりチラシをもらってくるべきだろうか、やっぱり専門の先生に一度見てもらった方が、
「ママ、」
「ママいたい」

見ると娘はとうに泣き止んでいて、私ばかり涙が止まらない様子で、えっ、私泣いていたの、
「ごめん!痛かった?ぎゅうぎゅう痛かったね、ごめんね」
「ちがう」
「違う?」
「ママ、いたい」
「えっ?」
途端、小さく尖った手が私の顔に伸びてきて、眼球を掠めてむんずと頬っぺたを引っ掴み、
「えっ、痛い、えいちゃん、痛い痛い、やめて、バツ、ほっぺたバツです、」
必死に手でバッテンを作るが、なおも、
「ママ、いたい!」
と叫ぶ。
その激情に触れるに至って、ようやく得心した。
「えいちゃん、えいちゃん聞いて、ママね、痛くない!痛いのないよ!」
「泣いてるのは悲しい、だったからなの、心配してくれたのね、優しいね、えいちゃん、優しい、ありがとう」
途端、掴んだ時と同じように大きく手を振り回して唇の端にぶつかりながら手が離れていく。
唇、少し赤く腫れただろうな、と思いつつ、今日も何とか意思疎通がはかれた事にホッとした。

よくよく落ち着いて部屋を見るともうすっかり日が暮れて暗い。
西陽の差した格子窓の向こうに、赤い虫食いの葉が見えた。今年の猛暑ですっかり熱枯れしてしまったのだ。夏の健康的な青い葉に混じった赤や黄色の葉を病葉(わくらば)と言うらしい、と向かいのお婆さんから聞いた。一人だとさして話しかけられないのに、子どもを連れているとやけに気安く話しかけられる。
孫が最近よく口にするから見せてやったら、知らない要らない、と言われたとか。あの時の話は長かった。そういえば娘は何て言ったんだっけ。
ああ、そうだ、たしか、
「葉っぱ、きれい」
って枝をむしり取るようにして病葉を掴み取ったものだから、
びっくりして私が謝って、お婆さんは突然の事に驚いたのもあってか、
いいわよいいわよ、そうねえ、赤くて珍しくて綺麗よねえ、と許してくださって、
そうして、その病葉は娘の宝物入れのテーマパークの缶缶に仕舞ってあるんだった、とそこまで思い出して、電気をつけた。

「お腹すいたね、えいちゃん」
「えいちゃん、おなか」
「うん、ご飯作ろっか」

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