タイムカプセル・クリスマス #2
駅前の洋菓子店『フラン』までは、歩くと10分ちょっとかかる。
自転車で行けば5分くらいで済むけれど、あいにく私のチャリはクロスバイクというスポーツタイプでカゴさえつけていないから、ケーキ運びにはぜったい向かない。だからといっておかあさんのママチャリを借りる気にはならなかった。重たくて、乗りにくいのだ。すごく。
去年までは――これもやっぱり、妹のかおりが一緒だった。だから、歩いていくのも苦じゃなかったんだけど。
だらだらと、住宅地を駅方面へ向かいながらスマホを引っぱりだす。
メッセージアプリの新着通知が数件。
私はそれをひとまずおいてメールを打った。
――今日何時にくるの
絵文字も顔文字もつかわない、ハテナマークや句読点さえない淡泊な文章。宛先は、ちーちゃんだ。
冬の空は澄んでいる。休日の空気はゆったりしていて、透きとおるようなきれいさがある。
風はつめたくても、うなじに浴びる午後の日差しはあたたかくて気持ちがいい。飾りつけ用のこものたち――とくに鼓笛隊のこびとたち――を日向ぼっこさせてきたのは正解だった。
ほどなくしてスマホがふるえた。
空に上げていた瞳を戻すと、ちーちゃんからの返信だった。なんだかんだ、レスポンスはいつも早い。
――夕方くらい
わかった、と打っている間に、続けてもう一通。
――なにか必要なものある
――チキン
――知ってる
――あとはおかあさんに聞いて
――わかった
ちーちゃんの文面も、あいかわらず淡泊だ。というか、うちはみんなこうだ。家族同士だからっていうのもあるのかもしれないけれど、そもそもメールとか、そういうツール自体を必要以上に使わない。
ちーちゃんなんてとくにそうで、自分のアドレスも覚える気ないって公言するし、いまどき誰でもやっているメッセージアプリさえ入れていない。同い年の奥さんに「信じられない」と呆れられても「そうかな」と笑うだけで改めるつもりはないらしい、って、これはおかあさんづてに聞いたことだけれど。
――じゃああとでね
うんあとで、とちーちゃんから区切りの返信。
レスポンスも早くなんだかんだ律儀なちーちゃんは、7歳上のおにいちゃんだ。3年前に結婚して家を出た、私たちの大好きなおにいちゃん。
住宅地を抜け、大通りに出る。
繁華街と住宅街の境目でもあるこの辺は、雑居ビルだのマンションだの、いろんなものが好き勝手に並んでいて雑然としている。
ぽつぽつ点在している店舗はクリスマス一色、車道と歩道を区切る冬枯れの街路樹はくすんでいて、車の往来の多いねずみ色の道路は忙しなく流れ続ける。
賑やかなんだかさみしいんだか、うるさいんだか、とにもかくにもごちゃごちゃの風景。
ちーちゃんとのやり取りを終え、今度はメッセージアプリをひらいた。縦に整列している新着メッセージ。その中のたったひとつの名前が、私の意識を根こそぎ奪う。風景も、ほかの文字も、名前も、全部かすんでしまうくらいに。
『嶋野孝仁』
嶋野さん。嶋野さんだ。
受信は30分くらい前。ひらいてみると、「今日、すこし顔出せる?」とのメッセージのあとにクマのキャラクターが首をかしげているスタンプ。この人には、お茶目って言葉がよく似合う。
――すみません 今日は無理です
行きたいけど、と心のなかで付け足して。昨日だったら行けたのにな、とも付け足して。
既読がついてすぐだった。嶋野さんから、着信。
『もしもし。葵衣?』
嶋野さんの、すこし掠れた低い声。男っぽい、でもぶっきらぼうさは微塵もない、包みこんでくれるようなあたたかい声。
ひとまわり以上離れているせいか大人の声だなっていつも思う。この人に名前を呼ばれると、ガラにもなく心臓が、とく、と音を立てるのだ。
『メリクリー』
私が返事をするより先に、陽気な調子で嶋野さんが言う。
この感じ、ちょっとお酒が入ってる。まだお昼なのに。
「こんにちは」
『メリクリ』
「……えっと、メリークリスマス、です」
このフレーズ、言うのがちょっと恥ずかしいのって私だけなのかな。
「嶋野さん、すみません今日。行けなくて」
『え? ああ、いいよいいよ。こっちこそごめんね、急に』
「いえ」
うれしかったです、は、やっぱり心の中だけで。
『クリスマスは家族と過ごすって言ってたもんね』
「そうなんです、昔からの決まりっていうか。毎年恒例っていうか」
『ははは、言ってたね。いや、里奈がね、葵衣ちゃんの顔が見たい見たいってわがまま言うもんだから。フラれるだろうなとは思ったんだけど、形だけでもね、聞いとかないと。ほら、拗ねるとめんどくさいから』
里奈さんに言われたから、……まあそうだろうなとは思ったけれど。
『――ちょっと、聞こえてるからね!』
電話越しに飛びこんでくる里奈さんの声。
『はは、聞こえるように言ったんだけどね』
キン、と軽やかな金属音が聞こえた。ジッポライターの音だ。続いて、カラカラと窓を開ける音。たばこを吸いにベランダに出たんだなって、わかる。
「里奈さんって、いま……?」
『台所にいるよ。なんかよくわからない料理作りまくってる』
その言い回しに笑ってしまった。
「なんですか、よくわからない料理って」
『なんだろうなあ』
ははは、と嶋野さんも笑う。
この人は笑うときに、本当にきれいに「は」の発音をする。私の好きな笑いかた。
『葵衣はどう? 楽しんでる? いま家?』
「あ、いえ、いまは外です。予約したケーキを取りに行くところで」
『へえ、いいね』
やさしい相槌に誘われて、毎年クリスマスケーキを予約していることに始まって、うちのクリスマスツリーが大きいこととか、さっきまでその飾りつけをしていたこととか、そのお供に嶋野さんに教えてもらったミュージカル映画のサントラを選んだこととか――そんな話をしているうちに、あっという間にフランについた。できるだけゆっくり歩いていたというのに。
そろそろ、と言うと嶋野さんも、うん、と声でうなずいて、
『じゃあ、楽しいクリスマスをね。ツリーの飾りつけ頑張って。今度写真見せてよ』
「はい。それじゃ」
『じゃ、ね』
通話が切れて少ししてから、私は耳からスマホを離した。
行けたらよかったなあ、ってあらためて思う。
でも、今日だけはどうしたってだめなのだ。クリスマスだから。
うちはわりと自由なほうで、暗黙のルール的なもの――たとえば、おかあさんが料理をしているときにはキッチンに入らないようにする、とか、おとうさんの部屋のものには触らないようにする、とかはあるけれど、学生のころから、門限なんかもとくになかった。
ただ、たったひとつだけ、昔からの決まりがある。
ずうっと前、おとうさんとおかあさんが結婚したときに決めた約束事。
クリスマスは、かならず家族全員で過ごすこと。
これはおとうさんが決めたんだそうだ。仕事で家をあけることのほうが多かったおとうさんも、この約束だけは、なにがなんでも守ってくれた。だから私たちも、友達とのパーティーや恋人とのデートとかはぜんぶクリスマスイブに済ませて、当日は、かならず家で過ごすようにしてきた。
いつまでも、なにがあっても変わらない、年に1度のクリスマス。
大きなツリーと、クリスマスソングと、ホールケーキにフライドチキン、大皿に盛りつけられたオードブル。おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、ちーちゃんにかおり、そして私。
クリスマスは、みんなが揃うたいせつな日なのだ。
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