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ノスタルジック・アディカウント #10
俺はののに視線をやった。
自信がついて明るくなる――というののの持論は、どうやら裏目に出たようである。
着飾った『音乃』は終始うつむき、羞恥を握りこむように両手を固く結んでいた。明るくなるどころかますます委縮してしまっていたように、俺には見えた。
「おっかしいなあ」
口をとがらせて、ののはわしゃわしゃと後ろ髪を掻いた。
姉貴も釈然としない様子。
「まあ、慣れてないのもあるんだろうけど……普通は、わあぜんぜんちがーう、って感動するもんだけどね」
――普通。
それを〈普通〉としていいものなのか。
俺にはよくわからないけれど、興味の有無によってそもそも違うんじゃないのだろうか。少なくとも『音乃』の口から「ぜんぜんちがぁう」は、まったく想像ができない。
姉貴の携帯が短く鳴った。
「あ、ケイからだ。『どーなった?』って。――ああ、そうそう。うちのケイにも送っておいたのよ一応、ののちゃんたちが来るってこと。……あ、追撃。『まだいんの?』って」
帰ってくるタイミングはかってんな、と姉貴が呟いた。
時計を見ると、ちょうど、五限目の終わったところである。ひとまずの様子窺いといったところか。
朝、出際に『俺』は「放課後の予定はとくにない」と言っていた。
俺たちが――いや、『音乃』か――いないと知れば安心して帰ってくるだろうし、いると聞けばもう一度、HR終了後あたりに同じメッセージが送られてくるに違いない。
ののが姉貴の腕に抱きつくようにして、画面をのぞきこんだ。
「待ってます、って送ってみぃちゃん。ぜったいまっすぐ帰ってきてって。せっかくだもん、こっちの『ケイ』くんにも見せたいじゃん」
「だいぶ変わったからねえ、『音乃』ちゃん。びっくりするんじゃない?」
「あ、でもこっちの『ケイ』くん、前の『のの』のこと一回も見てない」
「あれ、昨日会わなかったの?」
「会う前に帰っちゃったの」
二人仲良く顔を寄せ合い、ああだこうだとやっている。ののと姉貴はあっというまに距離を縮めたようだ。
なんだか、自分たちの世界に戻ってきたような錯覚。
『俺』への連絡はののたちに任せ、俺はふたたびソファに腰を下ろした。手にしたコピーへ、あらためて目を落とす。
――人はみな、己の人生を導く術を持っている。
〈己の人生〉を導く術。
この文言をそのまま受け入れるとしたら、やはり〈のの〉ということになるだろうか。『俺』に関してはさほど悩んでいるようには見えなかった。
――ただし自己を操ることは不可能である。
――人間を支配しているのは心という魔ものである。
魔もの。
〈心が魔もの〉とは、いったいどういう意味なのか。
『俺』と『音乃』が話したがらない過去。
片方は筋違いだと話すのを避けた。片方は嫌だとはっきり拒絶した。
すんなり話してくれれば確かに――それがいいものなのか、それで俺たちが帰れるのかどうかは別としても――『音乃』の状況は少なからず変化するのだろうと思う。
この文言を借りるのなら、〈導く〉ことはできるかもしれない。
逆に言えば、そこに触れないかぎりなにも変わらないのではないのか。外見で変われる人もいるのだろうけれど、あの反応を見るかぎり、彼女にそれはないように思う。
ただ――。
痛みを伴う。
『音乃』が素直に応じてくれるかどうか――。
口元に手を置いてどうしたものかと思案していると、ふと、視界の端で動くものがあった。『音乃』だった。
音もなくリビングに入ってきた彼女は、やはり音もなくドアを閉めると、そこから動くことなく所在無げに立ち尽くした。
姉貴とののは背を向けてああだこうだを続けているから気づいていない。
俺は『音乃』を手招いた。座れば、と隣に促してみる。
『音乃』はそばまで来たものの、座ろうとはしなかった。くすんだ瞳が、じっと俺を見下ろしてくる。
「……大丈夫?」
「じゃないです」
即答だった。
その視線が、ちら、と俺の手元に動く。例のコピーである。
俺はもう一度、座れば、と促した。
用紙を軽くを揺らして、聞きたいこともあるし、と添える。
ぶあつい前髪という黒い壁がなくなったことで、コミュニケーションが取りやすくなった。ただ相変わらず感情は読みづらい。表情筋がほとんど動かないから怒っているのかデフォルトなのか判断しづらかった。
ドア側に座っていた俺は、ローテーブルとの間に道を作るべく足を引いた。通りやすいようにと配慮してのことだったが、『音乃』は俺を見下ろしたまま一拍おくと、なぜかわざわざソファの後ろをまわって反対側に行き、ぼすんと勢いよく腰を下ろした。
部屋でしていたように、ソファの上で膝をかかえる。
ゆるいニットセーターに膝丈のスカート。裾が下がって白い太腿が露わになる。
俺は慌てて顔を正面に戻した。
ソファのひじ掛けにかけてあったコートを『音乃』に差しだす。
「なんですか」
「いや、足」
「……ああ」
もともと頓着しないたちなのか、『音乃』はただ納得したように頷いた。恥じらう様子もない。眉ひとつ動かさずにさらりと上着を膝にかける。
「見ましたか」
「え?」
俺はつい焦ってしまった。
しかし『音乃』は無表情のまま、それ、と言って俺の持っている紙を瞳で示した。
「あ、ああ。うん。待ってるあいだに」
「最後まで見ましたか」
うん、と俺も紙を見る。
「変なレスがあったでしょう」
「――これ、だよな」
「そうです」
「三枚で終わってるのは、これ以上はとくになにもなかったから? まだ続いてそうな感じもするけど」
「続いてましたよ」
『音乃』は一度、そこで黙った。
まったく動かなかった表情が、ほんの少しだけ厭そうにゆがむ。
「ほかにもいくつか、並行世界に行ったとか異世界と思われる場所に行ったとか、そういうスレッドもありました。明らかに釣り――嘘っぽいものがほとんどだったんですが、信憑性のありそうなものも混じってはいました。ただ――」
嫌悪の色が濃くなる。
「――ソレは異質でした」
「異質?」
「まず、私が見た中ではソレが最新のスレッドでした。立てられたのは、日付が変わって今日の夜中。タイミング良く見つけられたこともあって話を聞こうとしてみました。煽ってみて、スレ主がムキになってボロを出せばそれまで、信憑性がありそうならなんらかの方法で連絡を取ってみようかと思いまして」
やはり彼女が立てたのではないらしい。
俺は一枚目に戻した。相手の怒りを誘うような、無理やり情報を引き出そうとしているような、強い言葉が散見される。投稿者は同じである。これが『音乃』だろうか。
『音乃』が続ける。
「でも暖簾に腕押しというか――期待したようなレスは得られませんでした。釣りとも断定できないし、真実(ほんとう)とも言いきれない。向こうはなにも情報を出そうとしない。ほかの人がだんだん離れていって――私も見切りをつけようとした――そのときでした」
紙をめくる。
二枚目の、真ん中あたり。
「……まるでタイミングを計ったみたいに、それが投稿されて。少しだけスレが盛り返してきました。けど、以降スレ主による投稿はなくなります」
「うん」
そのことには俺も気づいていた。
『音乃』は俺をちょっと見て、
「べつにそれだけなら良かったんですが、そのあと――その人は」
紙面を見やり、虚空を睨みつけるように正面へ瞳を戻す。
「その人は、同じレスを連投します。何度も、何度も。そのあとも、朝までずっと」
三枚目の――途切れた先。
『音乃』は悪寒を抑えるように両腕を抱えた。
「はっきり言って気持ち悪かったです。淡々と保守のために――その、放っておくとスレッド自体が埋もれてしまうので、防ぐために定期的にレスをつけることをそう呼んだりするのですが――そのためだとしても気持ち悪い。狂気的でした。なんだか、私に直接呼びかけてるみたいに思えて」
ふるりと体をふるわせる。
「その先も印刷しようかと思ったんですが無理でした。不気味すぎて」
「……なるほどな」
間抜けな相槌だと自分でも思った。
ただ、ほかに掛けるべき言葉も見つからなかった。
リアルタイムで見ていたら、俺でも鳥肌が立っただろう。狂気的だと『音乃』は言ったが、偏執的だとも俺は思う。
この投稿者がなにか知っているだろうことは明らかだけれど――。
「これを書いた人と連絡――」
「無理ですね」
言い終わる前に拒絶された。
無理、というか、厭なんだろう。
スレッドを立てて呼びかけてみたらどうか、という提案は喉の奥にしまいこむ。
携帯が使えれば、『音乃』に代わって俺が表に立つこともできるというのに。
本当に不便だ。昨日から何度思ったことだろう。
「ええと。もしもこれが、俺たちの現状を示唆するものだとして――」
続けようとして、いつのまにか姉貴とののが話をやめて俺たちのほうを見ていることに気がついた。
あらかた聞いていただろうか。
ののを手招いて、件の紙を渡す。
姉貴もくっついてきてののの手元を覗きこんだ。
それを横目に俺は続ける。
「――正直、外見を変えただけじゃどうにもならないと思ってる」
「でしょうね私もそう思います」
「なら」
「わかってます」
『音乃』は大きく溜息をついた。
「わかっては、いたんです。あなたの言うとおり――あなたがたがあの夢をみたのは無意味じゃない、だから話すべきだって。けど、――いえ、やはりさっさと話すべきでした。そうしたらこんな、恥を晒すような真似をせずに済んだかもしれないのに」
ののが顔をあげた。恥って、と眉をひそめる。
気持ちはわかるけれどここで躓くわけにはいかなかった。せっかく、やっと進展しそうなのだ。俺はののを制止して、先を促す。
「なにが、あったの?」
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