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奈落のほたる#16 5-3


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 初めて妖精が黒くなることを知ったのは十歳のときだ。
 冬の海みたいな群青色の父の妖精がある夜とつぜん黒くなって、次の日、死んだ。雪が降っていた。営業車で取引先をまわっている途中の、運転中の事故だった。

 それから一年と経たないうちに、今度は母方の祖母の、きなこのような薄黄色の妖精がだんだんと黒ずんでいき、二年ほどかけて真っ黒になった。祖母は肺をわずらい、一年半の入院の末、亡くなった。

 それまでにも、黒い妖精は何度か見たことがあった。

 たとえば、母親に連れられて行った人であふれる休日のショッピングモールだったり、家族で出かけた国内屈指の巨大テーマパークであったり、あるいは電車に乗り合わせた人の肩であったり。

 けれど本当にごく少数――一年に一度見られれば多いくらいの頻度だったから、私はてっきり、黒い妖精は稀少な種類で、もし見つけたらラッキーくらいに考えていた。ガムのあたりくじや、四つ葉のクローバーや、ひとつの卵にふたつの黄身が入ってるときみたいに。

 でもそれは、けっして幸運の証なんかではなくて、重たくて悲しい死の象徴だった。

 そのことに気づいてからは黒い妖精が嫌いになった。
 いつか友人や身内、ごく近しい人たちにも現れる日がくるのだと思うと、たまらなくなった。何度見なければならないのだろうと考えると、怖くて怖くて仕方なくなった。

 それでも。それでもあの母娘だけは、黒くなってしまえばいい、そう思わずにはいられない。

 化粧慣れしていないのが一目でわかるあの顔も、がさがさした粗い手も、安物ブランドで揃えたようなファッションも、ちょっと太めの体つきも、いやらしい笑い方も、思いだしただけでむしずが走る。

 サヤと血の繋がった母親。サヤはもちろん論外だ、顔も声もほんの少しだって思いだしたくない。

「ママ、ごめんなさい、ママ、ごめんなさい」

 バス停のある大通りまで出たとき、ふっと耳たぶを切るような、れなの悲痛な声がとびこんできた。

 おどろいて振り返り、そこで初めて気がついた。
 細い手首を力いっぱい握りしめていたことに。小走りといってもいいほどの早足で一気にここまで来たことに。れなが息を切らせていることに。泣いていることに。

 慌てて手を離した。私の指はふるえていた。れなの手首は真っ赤になっていた。泣きながら繰り返される、ママごめんなさい。

 ああ、なんてこと。

 膝から力が抜けた。くずおれるようにしてしゃがんだ私は、れなを思いきり抱きしめた。

「ごめんね、れな、ごめんね」
「ママ」

 涙に濡れたれなの声。私の声も同じだった。

 れなのために完璧なママでいなければならないのに、私がこの手でれなを傷つけてしまった。可愛いれなを泣かせてしまった。怖い思いをさせてしまった。

「ごめんなさい、ママ」
「謝らないで。れなは悪くないの、ママが悪かったの。ごめんね、れな。あんなふうにされたのママ初めてだったから、本当にびっくりしちゃって」
「ごめんなさい」
「れな」
「ママ、ごめんなさい」

 何度も何度も、れなは泣きながら繰り返す。私の声も、言葉も、なにひとつ届いていないみたいに。

 私はなにも言えなくなってしまった。

 両腕でれなのすべてを包みこんで、小さな頭に自分の頬を押しつけて、あなたを愛しているの、大切なの、と全身全霊をこめて、必死に、懸命に、訴えつづけた。



「おかえり」

 リビングに入るやいなや、部屋着姿のままソファでテレビを眺めていた夫の息をするような「おかえり」。ただいま、と返した声はひどく掠れて、ちゃんとした音にならなかった。

 不審に思ったのか、夫がこちらへ首をめぐらせた。とたんに垂れ気味の細い目が大きく見ひらかれる。私の姿を凝視する。

「どうしたの?」

 ひどい状態になっている、その自覚はあった。

 泣いたせいで目は腫れぼったいし、メイクはぼろぼろだし、服も汚れている。バスに乗って帰ってくるとき、運転手にも乗客にもじろじろ見られた。
 れなと二人掛けの座席に座り、ふと窓に映る自分の顔を見てみたら、すっかりおばさんになっていた。天井から差すほのぐらい照明のせいかもしれないけれど、目もとや頬に陰が落ち、顔の小じわが目立っていた。きっと彼の目にも、同じものが映っているのだろう。

 でも、説明する気にはなれなかった。

「なんでもない。れな、お風呂はいろうか」

 うつむいたまま、れなが小さくうなずいた。ひしひしと感じる夫の視線に、私は気づかないふりをする。

「先に入っててね、れな。お着替え用意するから。お洋服は洗濯カゴにね」

 また小さくうなずいて、れなは足音もなくリビングから出ていった。見送ってから寝室に向かう。夫が立ちあがるのが見えたけれど、知らないふりでソファの後ろを通り抜ける。

 声さえ無視していればやり過ごせる。彼は私を無理やり呼びとめようとはしない。そう思っていた。

「奈美」

 おどろいた。はっきりと名前を呼ばれたことにも、不意に掴まれた手首にも、その力強さにも。射抜くような、瞳の強さにも。

「なにがあったの」

 目の奥の奥までのぞくような彼の瞳。れなもときどきこういう目をする。ああこの人は間違いなくれなの父親で、そして私は、この人のこういうところに惹かれたんだ、と他人事のように思いだす。

「なにも」

 きれいな笑顔をつくれたと思う。

 力が緩んだ。私の手首は、彼の手のなかからするりと抜ける。寝室のドアをしめてすぐ、私は目を閉じ、深く深く息を吐いた。


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