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奈落のほたる#22 7-3

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 ぎしぎしとおとがする。みみのおくでたえまなく。
 おおきくなったりちいさくなったりするこのおとのしょうたいが、わたしにはまるでわからない。


 れなの担任の鈴原先生から電話があったのは、舞子と会い、朱色の妖精をもつ青年の来訪を受けた翌日のことだった。

 最近、れなが授業中によく居眠りをしているという。元気がなくて、休み時間もひとりで席に座ってぼうっとしているのだという。

 れなさんはおとなしいところもありますけど、とても素直で、まじめな子です。授業にも真剣に取り組んでいましたし、休み時間にはお友達と遊んでいたのに――二学期の、終わりごろでしょうか、なんとなく元気がなくなって、口数も減ってきて。まあ二学期は長いですし、まだ一年生ですから、慣れない学校生活の疲れがどっと出てしまったのかな、と思ってはいたんです。でも、……その、休みが明けてもれなさんの様子が変わらない、といいますか、余計に……。それで、おうちのほうでなにかあったのかと心配になったものですから――――。

 電話越しに聞いた担任教師の言葉が、頭のなかでぐるぐるまわる。

 れなの異変には、もちろん私も気がついていた。二学期の終わりごろ、と担任教師は言っていたけれど、まさにその時期から、私のれなはどこか、なにかが欠けてしまった。春の陽ざしが一瞬にして、虫に食われた三日月みたいに変わってしまった。

 あの公園で、あの母娘に会ってからだ。
 笑顔が少なくなった。ぎこちなくなった。よく私の瞳をのぞきこむようになった。ほたるの話を、しなくなった。

 それだけじゃない。
 私がなにを訊いても、返ってくる言葉が「ママは?」になった。たとえば買いものに行ったとき――これは冬休みのときだった。私たちが足しげく通うセレクトショップで、私とれな好みの可愛らしいデザインの洋服をいくつか見つけ、試着をし、「れな、どれがいい?」と訊いたら、

「ママは?」

 首をかしげて、れなは私の瞳をじっとのぞいた。クリスマスのときもそうだった。クリスマスケーキの予約をしようと、洋菓子店のカタログを見ながら「どのケーキが食べたい?」とれなに訊いたら、「ママは?」とやっぱり首をかしげて瞳をのぞきこんできた。

「今日はどんな服がいい?」「ママは?」「どんな髪型がいい?」「ママは?」「れな、どこか行きたいところある?」「ママは?」「お夕飯、なにが食べたい?」「ママは?」――こんなことが、何度も何度も、何度もあった。

 なんとか以前のれなにもどってほしくて、私はできうるかぎり優しいママとしてふるまった。愛情のすべてを、体に、言葉にそそぎこんだ。

 それでもれなは、どこか、なにかが欠けたまま。
 食いちぎられた、三日月のまま。

「ママ、ただいま」

 チョコレート色のランドセルを背負って帰ってきたれなを、玄関先で出迎える。

「おかえり、れな」

 やさしく抱きしめてあげると、私の鼻先を、蜂蜜色の妖精がふぉんと飛んだ。どこか褪せた、さびしい色。

「きがえてくるね」

 れなが、ぽてりとしたくちびるを、く、と持ちあげる。私には嫌でもわかる。わかってしまう。ちゃんとした笑顔をつくるために必要な、意識的な顔の動き。

 リビングに入り、れなの小さな背中が寝室の扉の向こうに消えていくのを見送って、私はソファに腰をおろした。ぼすん。空気の一気に抜ける音が、静かなリビングに大きく響く。

 あれ以来、あの母娘にも会っていないし、話題にさえ出していない。れなが着たくないと言ったワンピースはもちろん、母娘に会った日に身に付けていたものもすべて捨てた。時間が経っても、一度つけられてしまった傷はじくじくと膿んだまま、癒えることはないのだろうか。

 ああ、私のれな。可哀想なれな。

 部屋着に着替えたれなが、教科書やらドリルやらの教材をかかえてリビングに戻ってきた。最近は帰ってきてからなによりも先に宿題をかたづける。

 算数のドリルに懸命に向かうれな。大人なら見ただけで解けるような足し算だの引き算だのを、指を使い、真剣な顔で進めていくれな。学校のれなと、家でのれな。

 どうしようもなく、たまらなくなった。

「れな」

 れながぱっと顔をあげる。なぁにママ、って、言ってくれない。

「今日のお夕飯、なにが食べたい?」
「ママは?」

 れなの両目がじっと瞳の奥をのぞいてくる。私はもう、笑顔をつくるのに必死だった。

「ママはね、れなの食べたいものが食べたい」
「れな、なんでもいいよ」
「最近、食べたいものを言ってくれなくなったのね」

 私がそう言ったとたん、れなの目がびっくりしたように大きくなった。こぼれ落ちてしまいそうな黒い瞳が、せわしなく、揺れ動く。

「れなね、れな、えっとね、ハンバーグが食べたい」

 ああ、と溜息と一緒に嘆いてしまいそうになる。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。あんなにも愛らしくて素直な子だったのに。私のれなは、いったいどこにいってしまったのだろう。

 私はゆっくりと息を吐きだしてから、れなの隣に座りなおした。体があんまり重たくて、ぜんぜん膝に力が入らなくて、ずるずると、ソファからずり落ちるようになってしまったけれど。

「れな」

 不安そうな黒い瞳が見あげてくる。だいじょうぶよ、と伝えたくて、安心させてあげたくて、細い肩をそっと撫でた。

「ママね、れなのことがすごく心配なの」
「どうして……?」
「ここのところ元気がないなって思って。鈴原先生からもね、今日電話があったの。れながお友達ともあんまりしゃべらなくなって、どうしたんでしょうね、って」
「……」

 私の瞳の奥の奥までのぞきこむようにしていたれなが、くちびるを、く、ともちあげた。

「れな、元気だよ」

 いままで何度も目にしてきた。あの日以来、何度も、何度も、何度も。

 それでも――つくられた笑顔でも、ぎこちない笑顔であっても、その仮面の下にはまぎれもなくれながいる、私の可愛いれながいると、ずっとそう思ってきた。思うこともできたのに。

 まったく『べつもの』に見えた。れなのかたちを模したロボット。れなのすがたをしたにせもの。つながっていた私とれなの心の糸が、ぷつりと断ち切られてしまったみたい。にせもの自身の、手によって。

 全身から力が抜けた。虚無感にのみこまれる。あらがえない。自分の手がれなの肩からすべり落ちてラグマットの毛足に埋もれるのを、私はどこか別世界の景色みたいに眺めていた。

「ママ、どうしたの」

 ぎし。
 音が大きくなった。
 嵐のようにぎしぎしと、耳のなかで激しく軋む。

「ママ」

 私を見つめるれなの黒い瞳。のびてきた手が、頬にふれる。

 れなの瞳は、こんなに無機質な色じゃなかった。こんなにつめたい指じゃなかった。
 この手はいったいだれの手なの。わたしのれなはどこにいったの。

 かえして。
 れなをかえして。
 わたしのかわいいれなをかえして。

「ママ――」
「れな!」

 びくっと跳ねた小さな肩をしゃにむに掴む。

「どうしたの。いったいどうしたっていうの、れな。あなたはどこにいるの、どこに隠れてるの。もう怖い人もいないのよ、嫌なこともぜんぶ忘れていいの。だから隠れてないで出てきて、れな。れな、れな」

 体の奥底にねむる『わたしのれな』を起こしたくて、掴んだ肩を一生懸命揺さぶった。

「ごめん、ごめんなさい、ママ、ごめんなさい。れな、いいこにするから」
「違う、違うでしょれな。そうじゃない、そうじゃないの」
「ごめんなさい、ごめんなさい」

 なにがなんだかわからない。ぼやけにぼやけた蜃気楼のまんなかで、たったひとりで叫んでいるみたいだった。私の目の前にいるこのこどもが、何(なん)であるのかわからない。ほんとうに目の前にいるのかどうかも、わからなくなった。

 ぎしぎしぎしぎし、音が烈しく鳴り響く。

 それなのに、こどもらしい甲高い声は私の鼓膜をつらぬいて、音の隙間をくぐり抜けて、奥深くまでえぐっていく。

「ママ、ごめんなさい、れな、れな、ちゃんとする。いいこにするから、いいこになるから」
「違うでしょう、れな!」

 私が求めているのはそんなのじゃない。

 花のように優しくて、ことりみたいに小さくて、自由に、ほがらかに、うららかな春の陽ざしのなかでわらう、可愛い私のれな。とろりとした蜂蜜色の妖精をもつ、きれいな私のたからもの。

 ぱん、とはじけるような音がリビングいっぱいに響いたとき、ぼやけていた世界が突然、鮮明になった。すべての感覚が呼び起こされる。手に残る衝撃のあと、じんとしびれるような熱。赤くなった手のひらを見て、ソファにくずれるように体をもたせかけているれなを見て、その頬が赤くふくれているのを見て、私は、自分のしたことに気がついた。

 れなを、たたいた。

「……ごめんなさい……ママ……ごめ、なさ……」

 ソファに吸いこまれていくれなの声を、私は茫然と聞いていた。


 世界が真っ暗闇に落ちていく。
 奈落の底に、おちて、いく。


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