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ノスタルジック・アディカウント #8

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「こいつから聞いてるかもしれないけど、電車に乗ってもどうにもならなかった。そもそも混んでたからまったく同じ状況っていうのは作れなかったし。だから、それは今日もう一度試してみようとは思ってる。時間も合わせたほうがいいかもしれないから、夕方ごろ」

 後半は二人に向けて言ったが、どちらもなにも言わなかった。

「――で、さ。昨日、こっちの『俺』とも少し話したんだけど」

 『音乃』の後ろ頭が、小さく反応した。

「俺たちがみた夢、あっただろ。こっちの『俺』が言うには、あの日の、次の日くらいからいろいろ変わった――らしいんだけど。心当たり、ある?」
「……正確にはなんて言ったんですか、彼」

 俺は少しだけ躊躇した。

「無視、されたりとか――しはじめたって」
「え、うそ。なんで?」

 ののが驚く。
 しかし『音乃』はそれを無視して、

「そのこととあなたたちが戻ること、なにか関係あるんですか」

 ――『俺』と同じことを聞く。

「なくはない、と俺は思う。昨日、こいつとも話して、もしかしたら……」
「〈引きこもり〉になってるせいじゃないかって」

 遠慮のない、攻撃的とも思えるののの言葉。
 『音乃』がうっそりと振り返る。

「……はい?」

 ふたたび空気が軋みだす。

「なんで私のせいになってるんですか」
「だってそうとしか考えられないじゃん。今の聞いて、あたし、絶対そうだって思ったよ。なんでか知らないけど、みんなからシカトされたんでしょ? それで引きこもりになったんでしょ? だから、それを〈直してあげるために〉あたしたちが呼ばれたんだよきっと」
「おい、のの」
「だってそうじゃん」

 頬をふくらませるようにしてののが言った。
 たとえ――たとえ真実そうだとしても、その言い方はまずいだろう。

 『音乃』を窺うと、引き結んだ唇を噛んでいた。が、すぐにふいと顔を背けてしまう。パソコンに向き直る。マウスの音は、しない。

「……いらないです」

 低い声で、『音乃』が言った。

「は?」

 ののが眉をひそめる。

「いらないです、そういうの。なんとかしてほしいなんて思ったこと一度もありませんし、これ以上関わってほしくないです」
「そんなこと言ったって、あんたをなんとかしなきゃ帰れな――」

 ののの言葉を拒絶するように。
 『音乃』が、机の上のものを、根こそぎ両手でなぎ払った。

 パソコンが落ちた。マウスが飛んできてののに当たった。箱ティッシュや文房具やなんかは、奥にいる俺にも当たった。口をつけていないコップはお茶を撒き散らしながら小さな山を作っている衣服の上に落ち、俺たちのコップも倒れてお盆の上を水浸しにした。

「痛(い)った……。――ちょっと。ねえ、ちょっと。なにいまの。なにその態度」

 『音乃』は背中をまるめて押し黙っていたが、少ししてから「いらないです」とさっきと同じ言葉を繰り返した。

 とたん、ののの怒りが爆発した。

「ふざけんなよ、まじで! あんたが良くてもあたしたちには良くないじゃん、あんたをなんとかしないと帰れないって言ってんじゃん!」
「――――」

 ぎゅっと体を縮めて『音乃』がなにか言っている。
 その声はあまりにも小さくて、もそもそしていて、聞き取ることができない。

「なんなの!? 言いたいことがあるならはっきり言えよ!」
「おいのの、落ち着けって!」

 ぐいと肩を引いて、止めた。

 力の加減ができなかった。俺自身も戸惑っていたのだ。
 突発的な『音乃』の行動に度肝を抜かれたのはもちろんのこと、ののがここまで激昂するのだって初めて見た。

 ののの上体がねじれ、半身がこちらを向く。
 その顔を見て、俺はまた戸惑った。

 怒りで頬は紅潮していた。恨めしそうに俺を睨む。

 涙ぐんでいた。

 しかしののは、見られるのを避けるようにすぐにそっぽを向いてしまった。掴んだ肩から微かなふるえが伝わってくる。

 手を、離した。

 ののは俺に背を向ける。『音乃』も背中を向けたまま。

 ふたたび静寂が落ちる。

 いつのまにか――さっき『音乃』から渡されてずっと手に持っていた――印刷紙が、散らばっていた。うち一枚はお盆の上に落ちていて、半分ばかりが麦茶色に染まっている。

 気まずい思いをしながら、俺は転がっている箱ティッシュに手を伸ばした。汚れてしまった紙を拭き、数枚まとめてお盆に落として水気を吸いこませる。

 ののも『音乃』もなにも言わない。

 完全に、停滞している。

「いきなり来た俺たちに――」

 仕方なく、口を切る。

「あれこれ聞かれるのが嫌だっていうのも、わかるけど。ののの言い方もよくなかったと、思うけど。少しでも、解決の糸口を掴みたいんだよ。いつまでも俺たちがいたら、こっちの『音乃』も『俺』も――迷惑だろ」
「先に時間合わせるやつやってください」
「時間?」
「電車の」

 ああ、と俺が頷く前に、

「何時間先だと思ってるの?」

 とげとげしく、ののが言う。

「のの」
「それで駄目だったらまた明日になっちゃうじゃん。あたしもうやだ。ここもやだ。泊まるのもやだ。夜中もずっと起きててかちゃかちゃうるさいし、そのせいでぜんぜん眠れないし。『のの』ずっと怒ってるし、嫌そうにしてるし」

 ぐす、とののが鼻を鳴らした。背中をすぼめる。目元をこすったらしかった。

「昨日、佳くんが帰ってから――」

 涙声でののは続ける。

「一分が、一時間が、死ぬほど長かった」

 ――ののが爆発した理由が、少しだけわかった気がした。

「……すでに起きてしまったことを――」

 ののの涙におされるようにして、今度は『音乃』がぽそぽそとしゃべりだす。

「――昔のことを話して今が変わるんですか。それが解決の糸口になるというんですか。私は、そうは思いません。過去は変えられないし、話したことで現在(いま)を変えられるとも思いません。だから話すつもりはありません。――けど」

 『音乃』はそこで言葉を切ると、深く深く、息を吐いた。
 椅子を回転させてこちらを向き、前髪の隙間から覗くくすんだ瞳でののを見やった。それから、俺の手元にある紙を見下ろす。

 けど――のあとを、彼女は言わなかった。

「〈直してあげる〉、とあなたはさっき言ってましたね」

 ののが少しだけ顔をあげる。

 ようやく二人の目が合ったように――俺には見えた。



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