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【ティアキン】天変地異がハイラル王国にもたらした本当のもの【レビュー】

先日こちらの記事を読んで、多くの点で納得した。記事に寄せられた、世間的に評価されているゲームに批判を投げるのが日本では勇気を伴う行為だ、というリアクションも全くその通りであって、僕はこの記事に好意的なスタンスで、しかし前作もプレイした身として、より補足的にレビューしたい。

上の記事の概要を僕なりにまとめると、『ゼルダの伝説:ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』におけるおもしろさは小さな足し算が延々と続いていく極めてインスタントなものであり、その自由は一定基準を超えた奥深さを備えてはおらず、それはメインストリームに向けたswitch専売ゲームとしては称賛されるべきものだが、ゲーム史上最高傑作と呼ぶには大いに疑問を伴うのではないか、という趣旨だったと思う。

なるほど確かにその通りだ。ティアーズ・オブ・ザ・キングダムは他のゲームと比べる以前に、ブレス・オブ・ザ・ワイルドと比較をした時点でもう、おもしろさを非情なまでにシンプルに切り落とした構造をしている。

しかし、それは製作者がかなり意識的にそぎ落とした要素なのではないか、というのは上記の記事でも触れられていたことであるけど、それにもやはり僕は同意する。気になるのは、なぜそうしたかだ。

単に、ライトゲーマー層の好む任天堂の、世界的に爆発的に売れた、看板タイトルの一角を担う作品の続編として、より多くの顧客が満足する作品を提供する必要があったから、だけではないと僕は見ている。

シンプルたれ、カジュアルたれ、カンタンたれというのは、ティアーズ・オブ・ザ・キングダムの大きな制作テーマの一つだった。それはブレス・オブ・ザ・ワイルドの延長線のように見えて、実は違う地平にあるものだ。

ゲーム世界では天変地異とある事件の影響により、前作と同じようで少し違うハイラル王国が描かれる。それもまた意識された描き方であるのなら、このゲームの製作者はまさに"魔物"的かもしれない。


前述の記事にならってまずは僕のプレイ状況を記す。
前作ブレス・オブ・ザ・ワイルド(以下BoW)から今作ティアーズ・オブ・ザ・キングダム(以下ToK)まで約2ヵ月をかけて通しでプレイした。プレイ時間はswitchの記録によればそれぞれ80時間以上と125時間以上でどちらも真エンディングまで到達している。また直近プレイした身としてBoWへの評価の回顧的な歪みも比較的少ないものになると信じたい。

BoWでは祠探索の118個目まで自力で行い、世界を三周ほどしたところであきらめてネットを参照し120個をコンプリートした。ToKでは自力ですべての祠を巡っている。これは二作の違いを本質的に表している差の一つだ。

ToKは達成可能のラインを極限まで引き下げることでプレイヤーをアシストしている。排除されたのは「つまずき」で、無数の成功体験がゲームプレイへの没頭を誘う。

例えばToKではほとんどすべての祠がシーカーセンサーに反応する。反応しないのは空から落ちてきた遺跡にてゴーレムが秘匿するもので、世界に3,4個あるのだが、それも地底世界に繋がる祠の根、という本作で追加された新システムから位置を同定することが可能だ。

でもちょっと待って欲しい。長く見積もっても数か月前の天変地異で空から落ちてきた祠が、もう地底深くで根を張っているのはだいぶおかしな話じゃないか? 世界観に矛盾している。細部まで配慮の行き届いたToKにおいて、この単純な矛盾には何か違和感がある。別の言い方をすれば、矛盾してでも実装したかった、ゲーム的な都合が製作者にあると想像できる。

祠のコンプリートをしたいという欲求にかなり低いハードルを設けている。とても象徴的な変更点だ。

前作ではどうだったかというと、シーカーセンサーに反応する祠は全体から見て3分の2ほどであり、残りは各地を旅してまわり、集落の人々に話を聞きまくり、地図の怪しい場所を端からめぐり、時には謎の吟遊詩人が奏でる歌に耳をかたむけ、時にはあてもなく荒野を駆けまわり、どうにか見つけだすより他はなかった。そもそもBoWの祠はぼんやりと橙に発光こそすれど、ToKのように遠くからでも目視できる謎の渦まきが発生していることはなく、鳥望塔が空たかくにリンクを発射してくれることもなければ、高速かつ快適な飛行手段もなく、もちろん地底世界も存在しない。

探す道のりは果てしなく長大なものだったのが、想像いただけるだろうか。それは何もわからぬまま広大な世界に放りだされ、遺された各地のウツシエから記憶をたどり、自らの使命を探るリンクの旅路に重なりあう。世界の形を知るほどにリンクの力は強くなり、使命はよりはっきりとした形を帯び、やがて大厄災との決戦に至る。

それは世界に触れ、深めることを重視する、とてもRPG的な営みだった。

僕は118個目の祠を七人目の英雄像の肩から見出した。どれだけ世界中歩きまわっても見つからなかった、遠くに揺らめく橙に涙がでそうになっていた。近づいてみればそれはテクスチャのエラーで地中の祠が貫通して見えていたのだが、僕にはそれも含めて特別な118目の体験になった。

しかし、ToKはその特別さを否定する。正確にはそこにいたる過程の、どれだけ探しても見つからない、という体験にかかる労力を敵視する。もっと好意的な言い方をすれば、その特別な困難さが振りおとした無数の人たちに手を差しのべる。

目指したのは誰もが努力すれば叶うという小さな成功体験だ。確かに前作でも成功体験を積みかさねることでプレイヤーの意欲を誘う構成は見られたが、今作ではより突きつめて小さな成功を散りばめた。そしてゲームプレイへの意欲をそぎかけない「つまずき」は、徹底的に排除した。ほぼ丸々祠の答えを用意した地底世界だけではない。今作の変更点の随所にそのコンセプトは表れている。

例えば簡略化された祠のしかけ。様々な工夫が凝らされ、時には詰みかねないほどの難易度を誇った前作の祠にくらべ、今作はそのほとんどがゾナウギアやウルトラハンドや戦い方のチュートリアルに終始している。

例えば戦闘をヌルゲー化するケムリ茸とコンラン花。戦闘経験を積むほどに強さを増し賢くなるモブに、前作はこちらの戦闘力も向上させて立ちむかった。ガーディアンの放つ殺人ビームを盾でパリィするタイミングを、あるいはビームの導線をうまく切りながら突きすすむルート構築を、各々が努力して勝ちとった。一方、今作からのお助けアイテムへの耐性はモブランクに関わらず皆無である。

例えば風船が3個までしか出現しないコログの風車。前作では一度に無数の風船がでてきたり、遠く彼方に現れたり、あるいは目視できないほど高速で動きまわったりと、プレイヤーの弓術を成長させるより仕方なかった。

今作は意図的に成長曲線を抑える構造をしているのが見てとれる。前作の風車はより秘境に位置しているものほどハチャメチャな難易度を持っていた。祠も隠されたものほど難解に。モブとの戦闘もまたしかり。

そうした連続的な営みを、ToKは否定する。もしかするとそうと気づかないほどに緩やかな曲線を描いていたのかもしれないが、それはなだらかに整理された遊歩道に見える。一歩一歩と荒野を踏みしめて世界を深める旅路こそ、前作ではあれほど大事にしていたというのに。

ここに、ゲームはもはや連続的なものではないという、製作者の視点を僕は汲む。ゲームは今や多くの人にとって、生活にあふれる無数の娯楽の、ただ一片に過ぎないのだ。通勤・通学の途中で、就寝前の数十分で、なんの気なしに戯れるもの。SNS、サブスクライブ、youtubeと候補が立ちならぶ中で、たまたまその時気分一つで選ばれたというだけのもの。

だからToKはどこで辞めても構わないし、どこから続けても構わない、極めてインスタントな作りをしている。小さな成功体験が無数にばら撒かれた道筋はちょっと気持ちいいがずっと続き、ゲーム外の経験値による作用を極力まで抑えることで、数時間ぶっ続けでいどむプレイヤーにも、数週間の空白の後に触れるプレイヤーにも、同程度の体験をもたらすことに成功している。

ToKとBoWの世界は似ているようでまったく異質だ。なぜなのか。だって天変地異があったんだから。ところでToK世界では子供の成長速度等からおおよそ5年の時間が経過しているのが見てとれる。これは現実世界で2017年に発売されたBoWが、2022年に1年間の続編制作延期を発表した事実から考えて、現実世界と等しい時間の経過を意識していたことが推測できる。

そして世界を変えた天変地異は、現実世界でも起こっている。

ToKはなぜBoWからその在り方を変えたのか。
それが世界の要請だと、製作者が感じていたからだと僕は思う。世界の在り方も、ゲームに求められているものも、確かに変化していることを、彼らは取り逃さなかった。6年も前から。なんという嗅覚だろうか。同様のコンセプトで、ここまで意欲と労力と開発力を傾けて作られたゲームを僕は知らない。

ToKはBoWと比べて、より"カジュアル"に、より断続的に、成功的に、誰も零さずに、快適に、"シネマティック"に、"手触り良く"、そうしたコンセプトをかなり意図的に盛り込んだゲームだ。

それは「すべての人」に向けられたゲームであるゆえに、「ゲームを(偏)愛する人」に向けられたゲームではないという、何か悲しい矛盾を孕んでいる。


ToK世界ではBoW世界の住人たちが各々暮らしていたりする。ゲルドキャニオンで遭難していた冒険者が治安維持隊の料理役を担い、月を研究していた学者はなぜか魔物に囚われている。ゲテモノ料理職人はついに究極の秘儀を編みだし、キノコを探していた姉妹は秘湯のシャングリラに出会い、舌ったらずの鳥の子が立派な弓職人へと育ちはじめた。

そんな中で、BoWで世界を深める役割の一翼を担っていた鳥人族の吟遊詩人は、どこにも姿が見られない。僕にはこれも象徴的な事態に思える。もしかするとDLCでひょっこりと帰ってくるかもしれないけれど。


ToKを終えた時、僕は大いに感動したのだけれど、BoWを終えた時ほどの達成感は得られなかった。そのもんにょりとした感情の、考察の機会をくださった記事に感謝して。ちなみにこれだけ大々的に引用しながら完全無断だったりするんですが、大丈夫でしょうか、まぁいいか。

ティアキンは大作ゲームであり名作ゲームであり、歴史に名を刻むべきものでもあり、ただ神ゲーかと言われるとよく分からないという、なんだか不思議な作品でした。むしろ製作者はこうしたゲームが世に評価されたことへのアンサーを期待しているのじゃないかとすら思う。

今、ゲームを(偏)愛する人々がどのような作品を作るのか。
この先の展開に希望を持って。

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