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おかえり登美彦氏『シャーロック・ホームズの凱旋』読後感想

 1月ほど前、本書を手に取った時僕には、これまでとは何か違うものが感じられた。仔細はこちらに書かれている。

 これまでとはつまり、『有頂天家族 二代目の帰朝』、『夜行』、『熱帯』といった作品群のことで、気をつかうことなく言ってしまえば、森見登美彦氏はずいぶんの間、ひどいスランプの渦中にあった。
 かつての名作たち、例えば『四畳半神話大系』、『夜は短し歩けよ乙女』、『宵山万華鏡』、『恋文の技術』、洒脱なこれらの作品群が放つ魅惑的な輝きは、もはや見いだせなくなってしまった。
 そういう観点から「これまで」のタイトルを見れば、「流刑からの帰朝」も、「暗夜行路」も、「密林の彷徨」も、彼の心の声がにじんだ題に思えてせつない。僕は読んじゃいないが『四畳半タイムマシンブルース』も、名作映画にあやかっているとは言え、「タイムマシンでブルース」なんて。
 彼は抜け出そうとしていた。あるいはかつての魔力を取り戻そうとあがいていた。そして、その試みは、ことごとく上手くいかなかった。
 ただし本書を書くまでは。

 実を言うと、僕もかなり半信半疑であったのだけど、読んでみれば本書『シャーロックホームズの凱旋』はちゃんと面白い作品である。最終章に入るともう、紙面をめくる手が止まらなかった。分厚い本書の残りページがほんのひとつまみになった段階で、あとこれしかページがないというのに、果たしてこの作品は大団円を迎えるのだろうかと僕はハラハラしていた。それは面白い小説を読んでいる時にしか湧かない感情だ。

 けれど、「凱旋」と題された本書も一見「これまで」と同じ命名規則が用いられているように見える。
 では、本書はいかなる点において、これまでとは一線を画しているのか?


 本書は誰もが知っている探偵小説を下地にしながらも、ただの探偵小説には収まっていない。なぜならば、シャーロック・ホームズは今世紀最大のスランプにあるからだ。
 彼だけではない。シャーロック・ホームズも、ジョン・H・ワトソンも、レストレード警部も、ジェームズ・モリアーティですら、「豪華客船ホームズ号」に乗るすべての人が、自らの才能という大海原を遭難している。ヴィクトリア朝京都と呼ばれる、鴨川から流れる霧に包まれた、ビッグベンではなく京都大学時計塔のそびえるへんてこな世界で、大いなる羅針盤を失ってしまった。
 言うまでもなく彼らは作家自身の擬人化であり、本書はスランプに陥った人間がスランプに陥った人間を描いた話なのだ。これは森見登美彦風に言えばまったく自家中毒である。

 しかし、人間がスランプに陥るのは偶発的であるとはいえ、実際に陥った人間がスランプの話を書くだけならば、けして特異であるとは言えない。なにしろこの10年間も登美彦氏はその渦中にいたのだから。本書を傑作たらしめているのは、スランプから回復の過程にある人間を、実際に回復の過程にある人間が描いているというところにある。

 本書の3章までならば、普通に面白くはあるが、かつての登美彦作品ほどの魅力はないかな、という感想に留まってしまうことだろう。なんだか普通の探偵小説の範疇だ。むしろ毛玉とふわふわ戯れるような、のほほんとした空気さえあり、いまいち緊張感がない。そこには劇的な殺人事件も、街中を駆け巡る叡山電鉄も、空から降ってくる2体の巨大だるまも存在しない。作家は魔力を取り戻すことなく、地に足をつけてしまったような気がする。「空を飛ぶコツは地に足をつけずに考えること」であるはずなのに。

 そうした物語がひらめきを取り戻すのは、3章の終盤に至ってからだ。そこでようやくこの物語の怪異的な風貌が読者の前に立ちあられる。僕には名作ゲーム『blood borne』の終盤にも似た跳躍を思わせたし、「探偵小説」という舞台の枠組みの、その裏側の深淵にまで、あなたは旅をすることになる。いつか見た煌びやかな世界に、年季とともに深みを増した、作家自身の痕跡があり、そこではシャーロック・ホームズも、あるいはジョン・ワトソンも、失われた活力を再び我が物として、その名を借りるにふさわしい冒険譚を駆け巡る。作家の回復と、登場人物の回復が、明らかにリンクしてしまっている。そんな作品を読める機会がいったいどれだけあるのだろう。


 かつての登美彦氏であれば、この作品は孤独なホームズ自身の視点から描かれていたことだろう。しかし、この作品の主役はワトソンである。初見時私は、ワトソンなくしてホームズなしとのたまう彼を見て、これは編集者の擬人化であるなと思っていた。そうではなかった。事実は、ワトソンもやはり作家自身のウツシエであり、愛する妻と、親愛なる相棒に、穏やかな家庭と、かつて心奪われたが今は見る影もない冒険の板挟みに逢いながら辛酸を舐めていた彼が、いったいどんな結末を迎えるのか、ここで語るようなことは慎んで。

 確かなのは、森見登美彦氏はようやっと凱旋を果たしたということだ。きっと想像以上に過酷な、帰る道も行く道も分からぬ夜道だったのだろう。なにせスランプに陥った作家の10年なんて、僕は想像したくもない。

 ゴールデンウィークは……と書いても、僕の記事は誰かに届くのがとても遅くなるものなので、あえて時期は限定しないけれども。
 あなたも、ヴィクトリア朝京都への旅はいかがだろうか。少しだけ地面から浮かびながらも、10年間の苦悩を終えた彼の世界は、今までとは違う趣を見せているから。

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