「ガール・イン・ザ・ベースメント」を観て
閲覧注意:性的虐待、近親相姦、暴力
この映画は、オーストリアで実際にあったフリッツル事件を元にした映画。
きっと、これに似たような経験と無縁の人生を生きてこれた人は、ある種エンターテイメントとして、全く自分に関係無いこととしてこの映画を観ることができるのかもしれない。
でも、私にはこの映画の状況まではいかなくても、それに似たような体験をしてきた過去がある。
そして、この映画のことをXで知った時も、どこかで無意識領域に押し込めている記憶、感情に触れるきっかけになればと思い見始めた。
(自分の経験をここにリストアップして世の中に分かってもらいたいと感じているパーツと、話が私だけで完結する内容ではないのでその影響心配して言葉にすることに抵抗を感じているパーツたちが私の中にいる。そして、いつか起こったことをちゃんと言葉に出来る日が来たらと思うパーツも。)
勿論、この映画を最後まで見ないという選択肢もあったが、最後まで観て思ったことは。。。
昔、これまでの記憶と疑念をドイツ人の知り合いに話したことがある。
そして、彼が私に言ってきたのは、
「彼が似たようなことを他の人にもしていないと言い切れるのか?
何故、警察に訴えないのか?
それを通報しないのはお前も彼と同罪だ!」
最近(やっと&残念ながら)性的虐待、性的暴行に関するニュースが取り上げられることが増えている。
そして、その中でよく目にする言葉が、
「なんでその時、警察に訴えなかったのか」
この言葉がどれほど被害者を傷つけているか理解している人はきっと少ないと思う。
私自身も特に性に関するトラウマについては、いまだに恥、悲しみ、罪悪感等色々な感情や混乱が渦巻いていてちゃんと言語化出来ないでいる。
ただ、永遠と自分の中で
「何故そんなことが起こったのか」
「何故医学を学んでいる人がこのようなことを起こすのか」
「どれだけ多くの記憶が無意識領域に閉じ込められているのだろう」
という問いが繰り返されている。
(直感では)普通ではない、ありえない状況って分かっている。
だけど、起こったことを頭で整理しようにも理解が追いつかない。
安全システムとしての解離が起こり、記憶そのものが曖昧。
もし自分の中である程度整理できたとしても、今の日本の警察や司法では「日本では、性犯罪を訴えても被害届さえ受け取ってもらえず、被害者が泣き寝入りするケースが非常に多い(文春オンライン)」という事実も。
100%加害者が悪いのに、被害者が自責や恥、世間体などを恐れ、加害者が本来背負うべき重荷まで全て独りで抱え込んでしまう。
被害者になった経験がない恵まれた人たちは、ある意味被害者が置かれている状態を正確に理解することは難しいと思う。そして、それは仕方がないことだとも思う。
だけど、だからと言って最も正義らしい言葉を振りかざして被害者を更に非難することに対しては、少し立ち止まって考えて欲しいと思う。
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