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ただしさについて

最近よく、ただしさについて考える。
ただしさと、強さについて。

先にことわっておくと、私はたぶん、
ただしくなくて強くないタイプの人間なんだと思う。

先日、ただしく強くあるべきだということについて考える機会があった。
もちろんいち考えとして、ただしく強くあるということが素晴らしいことなのは当然で、常識として頭にはあったのだが、ただしく強く"あらねばならない"という考えについて知ったのは、30年近く生きてきてはじめてだった。
ただしく強くない状態である自分が、他人を不愉快にさせるのだということを知った。
そのことをきっかけに、ただしさについて、ずっとずっと考えている。

話は変わって、私は文豪が好きだ。
太宰治、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、坂口安吾。
クセが強い文豪のなかでもクセの強さはひときわだ。

彼らの書く文章たちはもちろん、彼ら自身がのこしたエピソードが好きで、そのエピソードにふれるたび、仰天し、ひやかしで面白がりつつも、愛おしいという気持ちが湧き上がってくることを禁じえない。
この作者にしてこの物語、と相乗してどちらもより好きになる。

文豪にしろ、芸術家にしろ、その作品群にしろ、わたしはキレイなものよりも、歪んでぐちゃっとしているもの、怨念みたいなものの方が好きだ。

彼らはもちろん特別な人間なので、自分の話と混同すべきでないことは前提として、ただ彼らがただしく強く、模範のような人間だったらはたして彼らの作品はここまで魅力があったかと思うのだ。彼らが彼らのような人間だったからこそ、独自の考え、スタイルを確立し、いまも読まれ続けているのではないかと思う。

だからそんなものたちのことを好きな私は、ただしく強くなくてもいいと思った。
そうでないことによって、ただしく強くあれば得られたはずのものが得られなかったとしても、ただしく強くないことによってたくさんのものを失うことになったとしても。

だって私は、歪んでないとなにかを生み出そうって気持ちがわき出てこないから。
"くやしさをバネに"という言葉があるけれど、ただしくも強くもないわたしにとっては物心ついたころから恨みつらみというのが原動力の大部分を占めているのがあきらかで、恨みつらみのなくなった自分というのは果たしてどんなものか、なにを原動力に文字を書いたりいろいろなことをすればよいのか皆目検討もつかないくらい、恨みつらみは良き友なのだ。

これまでをふりかえると、そんなマイナスの感情から噴き出るものが、ふだんよりも良い文章だったり、創作活動だったり、頭のなかのひらめきだったり、どこかに行く/なにかをするきっかけになっていたと思う。

そして出発点がマイナスの感情からだったものが、ある行動を介したときにプラスの感情へとがらっと変わったとき、えもいわれぬ幸福感を感じる。忘れられないできごとになったり、生きてるなあと思うのは、そういう時の方が多い気がする。
物語と一緒で、自分の人生にも知らず緩急を求めているのかもしれない。

ただしく強くあればきっともっと出世したり、友達もできたり、すてきな出会い、キラキラした景色が待っているのだろう。(語彙力がない
)素晴らしいことだと思うし、そこにむかって日々鋭意努力し、邁進していけたらきっとそれがいちばん良いのだと思う。
でも私はただしくつよく美しく生きていくよりも、はいつくばってのたうちまわってヒリヒリと血を流しながらギラギラした目で、ときには泣いたり絶望したりしながら、これからもなんとかギリギリで必死で生きていきたい。
いまはそれで良い。

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