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【年齢のうた】山口百恵 その5 ●「私はもうはたち…」その頃、百恵はすでに年齢を超越した歌を唄っていた

都市対抗野球を観て来ました。といっても、観戦チケットを入手できたトヨタ自動車(豊田市)の1試合だけですが。Honda(寄居町・小川町)に快勝。
にしても、両軍真っ赤に染まる応援席と、ひたすら続く激しい応援合戦。都市対抗って感じでしたな。

先日はジェーン・バーキンが亡くなり、打ちひしがれました。僕はセルジュ・ゲンズブールが大好きで、その流れでジェーンやシャルロット・ゲンズブールも聴くようになり、彼、彼女たちの、それぞれのライヴにも行ったものです。
ジェーンは東日本大震災のあと、日本を支援するために来日してくれました。その際に渋谷の路上で声をあげる彼女と握手を交わすことができて、お互いに「サンキュー」と言った瞬間が忘れられません。
ジェーン。R.I.P

それから先ほど、元阪神タイガースの横田慎太郎さんの訃報を聞きました。2016年、自分が観に行った試合で彼が活躍していて、そのシーンはとても楽しい思い出として残っています。2番だった横田選手がネクストで素振りしてたらバットの重りが抜けなくなり、打順が来たので慌てて別のバットを取りに行き、戻ってすぐにヒット打って、そのあとの打者のヒットでまたすぐに生還して……ほんとに痛快だった。若い頃から闘病の連続、大変だったことでしょう。ご冥福をお祈りします。

今回は、山口百恵の最後の回。

10代の末になった彼女を待っていたのは、恋愛から、やがて続く結婚への道、そして引退でした。

20歳目前に発表されたアルバム『二十才の記念碑 曼珠沙華』


前回の後半で紹介したアルバム『百恵白書』。

1977年5月、18歳の時点で発表されたこのアルバムは、百恵のキャリア上、非常に大きな存在感を放っている。
当作品は、楽曲の傾向としても、この歌手の歩みにおいても、かなり後半のほうに出たような印象さえあるのだが、現実は異なる。時間軸で言うと、まだキャリアの中盤なのだ。
ここからはもう百恵の引退というラインまでを含めて語ろう。

この活動の中期から後期の百恵はビッグヒットを連発した。それぞれの楽曲はどれも強烈な個性を帯び、彼女はそのどの歌においても主人公になりきり、歌手として圧倒的な存在感を放っていった。

それは時に話題をふりまき、時に物議をかもし、そのたびに聴く者の笑顔や涙、あるいは怒りまでも誘発した。

1970年代後半の百恵は、まさしく時の人だった。

そんな彼女が最後にリリースしたアルバムは、1980年10月発表の『This is my trial』。オリジナルアルバムで数えると、これは22作目だった。

先述の『百恵白書』のリリースはこの3年と5ヵ月前になるわけだが、そちらは11枚目のオリジナルアルバム。
そう。つまり3年半という時間の区切り方をすると、この間にアルバムを12枚出していることになる。もちろんフルアルバムなので、それだけでざっと120曲だ。
このほかに、当然のごとくシングル盤のリリースはつねに続いており、ほかにライヴ盤や映画絡みのサントラ盤、それにいくつものベストアルバムも出している。とにかく尋常ではない作品数なのだ。
それには当時のCBS・ソニーが、百恵がそれだけ売れるシンガーであり、彼女の楽曲は商品としての価値が高いと見ていたからに他ならないはずである。新人としてデビュー当初からプッシュされる間は当たり前のことなのだが、そこからの数年はさらに人気を伸ばそうと力を入れられた時期で、そこで大成功を収めたことで、作品の制作~リリースの数はつねに多いままだった、とも解釈できる。
しかもレコード会社の制作担当だった川瀬泰雄氏が書いた『プレイバック 制作ディレクター回想記』によると、そうしたハードなレコーディングのスケジュールを百恵が嫌がったことはなかったようである。そのため、とくに中期以降は、楽曲の世界や音楽面などの方向性がさまざまな、本当に多様な作品がたくさん残されている。

ただ、こと年齢について唄った歌となると、後期に入ると、その手の作品はほとんど見られなくなる。

その中でも注目したいのは、1978年12月に発表した16枚目のオリジナルアルバム『曼珠沙華』(マンジューシャカ)だ。


このタイトルは、正式には『二十才の記念碑 曼珠沙華』という。そしてLPレコードの帯には「あなたの前で女でありたい。私はもうはたち…」というコピーが振られている。

このアルバムはジャケット写真もよく知られている。
引退後、かなり経ってからこの写真のアウトテイクが出たりもした

ここで二十才であることに言及されているのは、本作が出た翌月の1979年1月に百恵が20歳になるからだ。アルバムには、その区切りという意味合いを付与しているのだろう。
楽曲としてはシングルとして大ヒットした「いい日旅立ち」、そしてアルバムタイトル曲の「曼珠沙華」が傑出している。

その一方で、全体としてのトータル性という点ではやや薄いため、川瀬氏の回想記では、トータル・アルバムとしてのイメージを出すためにLPのA面を「曼珠沙華の章」、B面を「無垢の章」としたのだという。

そして、焦点である二十才であることを強調するのは、A面の最後の曲「曼珠沙華」だ。この歌には、百恵本人による、以下のようなナレーションが入っている。

傷つけられても、傷つけたくない。
愛されるより、愛していたい。
歌手の前に、人間でありたい。
あなたの前で、女でありたい。
あたしはもう二十歳

これも阿木燿子と宇崎竜童による楽曲で、ただシングルになってはいないが(のちに「美・サイレント」のB面にも収録)、この時期の百恵を代表する楽曲には違いない。強い意志が込められたラブソングで、堂に入った歌声を聴かせてくれている。

しかもこの当時は、三浦友和とのロマンスが報じられていた……というか、ほぼ公然の事実となっていた頃で、翌1979年には正式に交際が宣言され、そこから結婚、引退へと続く流れができていく。それまではひとりの少女が経験した出会いや恋愛、そこでの成長や変化といったモチーフが主だったのが、やがてフィクション的な楽曲の増加をはさみながら、新たな段階へと進んでいった。やがてそれらは大切な人がいること、そしてその上での人生という作品性へと変遷していく。

ここで先ほどのセリフである「あたしはもう二十歳」という言葉は、当時のファンにはどんなふうに響いたのだろう。アルバムまで聴いていなかった僕などは、こうしてあらためてデビューから振り返って聴いてみると、「百恵ちゃんも大人になったんだなあ」と感じる。と言っても、ただの大人の女性という印象ではない。イメージとしては、もっとエモーショナルで、もっと分厚い何かを抱えた人の像である。

そもそも二十才と言えば、いかに早く大人になることが促された当時の時代背景があったとしても、実際にはまだまだ女の子というか、少女の延長のような感覚の人が多かったと思う。男ならば、少年が青年になろうとしているところか。
しかし、もはやこの19歳の終わりの時点での百恵には、少女的な雰囲気はほとんどない。いや、なくはないが……たとえばそれは同アルバム中の、それこそ年齢ソングである「十五の頃(紅梅集)」で少女の頃の恋愛を唄っていたりするのだが(作詞は山上路夫)。これも、あくまでかつての自分を振り返るようなタッチで歌唱している。

それだけ、この二十才になろうとしている段階の百恵の歌には、すごみすら感じる。それはそうだろう。恵まれない環境で育ちながらアイドルとしてデビューし、日本中の人気者となり、俳優としても大活躍。芸能界という過酷な世界で生き抜き、その裏では実の父親との間にあったさまざまな問題を乗り越えながら、こうして最高の歌手としての座に突き進んでいく時期である。そんな彼女が、並の二十才の人間であるわけがない。
その意味では、ここでの「あたしはもう二十歳」という言葉は、彼女が14才とか15才の頃から共に生きてきた人たち、つまりファンやリスナーに、時間の経過としての事実を伝えるものではあったとしても、むしろそこらへんの二十才とはあまりに違うということを表現していたくらいではないか、と想像する。

山口百恵の歌の中で唄われた年齢について僕が言及したいのは、ここまでだ。

山口百恵の作品群は、年齢ソングの一般化に影響を与えたのではないだろうか?


百恵が1980年の秋、21歳で引退した時は、そのあまりの潔さに驚いたものだ。しかもその後、まったく復帰も何もなかったことも徹底しているなと感じる。
以降、申し訳ないが、僕は百恵の歌をほとんど意識しなかった。彼女のことを思い出したのは、まずアン・ルイスに楽曲提供をした時。

それからかなり経って、実の息子である三浦祐太朗のバンドをライヴで観た時。

あとは、自分がたまたま出かけたキルト展で、「三浦百恵」の名前で出展されている作品を見た時(たしか紺色を基調とした、わりと渋いめのものだった)。ほぼ、この3回だけだ。

しかし数年前にどうしたことかその歌に巡り合い、一方でこうして「年齢のうた」に関する作品やその歴史について掘り下げているうちに、山口百恵というシンガーはとてつもない足跡を残している事実に直面した。そこでは酒井政利という有能なプロデューサーの存在がかなり大きかった事実も知った。

思えば、この酒井プロデューサーは、デビュー曲の「17才」を大ヒットさせた南沙織に関しては、あの曲以降はそこまで年齢に固執した作品作りをしていない。数年後に、年齢を意識させるアルバムがある程度である。やはりこの時代は(いや、今も?)、二十才というラインは大人になるにあたって、大きなものだったのだろう。

しかし山口百恵のプロデュースにおいては、デビューした14才から、とくに16才に至るまでの年齢にまつわる作品はかなりの執拗さを持って作られ続けた感がある。

そして中期から後期にかけて、そんな縛りすら軽々と崩壊させていった歌手としての百恵のスケールの大きさが圧倒的だ。

今回こうして百恵について書くにあたり、故・平岡正明による名著『山口百恵は菩薩である』にも感銘を受けたことも書き添えておく。

さて、ここからは私論である。

山口百恵の年齢ソングの数々は、おそらく後続のアイドルシーンや音楽業界に大きな影響を与えている。その時々の年齢を歌にすることが、その歌手やアーティストのリアルな息づかいを作品に注入するのに有効な手段として認識されていったのではないかと思うのだ。

藤圭子の回で書いたように、年齢に関する歌は70年代以前からあった。しかしそうした作品を、アルバムを含め幾多のヒットを作った百恵以降、年齢ソングはより、一気に、ポピュラーなものとなっていったのではないだろうか。

そしてもっと言えば、こうした年齢ソングたちは、日本人の年齢観……さらには生き方や人生観さえ表すものとなりながら、親しまれているのではないかと思う。

このnoteの投稿では、いずれ、こうしたことにも触れていこうと考えている。

こないだ、八重洲でのFUJI ROCK WEEKの帰りに寄った
北海道どさんこプラザ(あちこちにあるよね)で
購入したカツゲン。
おいしい。
北海道に行ったらよく飲んでたなー

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