【年齢のうた】ムーンライダーズ その4●アルバム『DON’T TRUST OVER THIRTY』の発端は、闘争するボブ・ディランの姿
秋の匂いがしてはいますが、それでも暑いです。
うちの家族は最近、夏の疲れがちょっとだけ出たりしまして。全体におとなしくしています。
先週は、新宿三井ビルのど自慢大会が4年ぶりに開催されましたが、それを観に行くのも、諦めました。おとなーしく。
とはいえ、夏が終わっていきますね。
ムーンライダーズの「くれない埠頭」の季節です。
つい、センチになってしまいます。
「埠頭」をタイトルに持つ曲で、世間的に有名なのはユーミンの「埠頭を渡る風」でしょうが、自分の青春時代はムーンライダーズのほうでしたね。
とはいえ、もちろんユーミンの曲も素晴らしいですよ。
さて、今回のアイキャッチは、本文で登場する鈴木慶一の自伝と言える本『火の玉ボーイとコモンマン』です。
いよいよ、アルバム『DON’T TRUST OVER THIRTY』に、さらに入っていきます。
アルバム『ドントラ』のタイトルのきっかけはボブ・ディランの映画にあった
前回から引き続き、1986年のアルバム『DON’T TRUST OVER THIRTY』、通称『ドントラ』について。いよいよ本題である。
「30歳以上を信じるな」と宣言する本作に関して、鈴木慶一は著書『火の玉ボーイとコモンマン 東京・音楽・家族 1951~1990』(1989年刊)所収の弟・鈴木博文との対談で、こう語っている。
あのアルバムはなんといっても、「DON’T TRUST OVER THIRTY」という言葉が核になっている。なんであの言葉を思いついたかというと、ボブ・ディランのヴィデオ『ドント・ルック・バック』を見たからなんだ。
あの作品は衝撃的だったね。ディランが完全にポップスターなんだよ。ジャーナリストと喧嘩をする場面がある。ディランがやりこめられるんだけど、最後はもう「うるせえ、バカ野郎!」みたいな感じになる。
それがリアルでね。闘争するポップスターとしてのディランの姿がとてもリアルだったんだよ。
そのリアルさが、この時代に必要だと思ったんだ。このふやけた八〇年代後半の日本に。
僕はこの『火の玉ボーイとコモンマン』を1989年の刊行当時に買って読んでいた。しかしボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』は未見だった。
それからかなりの時間が経過し、ようやく観た『ドント・ルック・バック』。その内容には驚愕するばかりだった。鈴木慶一が語る通り、ここには「闘争するポップスターとしてのディランの姿」が刻み込まれていたからだ。
ここからは、このディランの映画『ドント・ルック・バック』について触れていく。
トガりまくったディランの姿が照射された『ドント・ルック・バック』
まずはこの映画の冒頭に置かれた、有名なシーンから見てもらいたい。1965年発表のディランの楽曲「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の映像である。
この映像は、ミュージックビデオ、あるいは昔の言い方だとプロモーションビデオの先駆として認識されている。曲が流れる中、その部分の歌詞が書かれたカードをディラン自身が次々に捨てていく演出は、さまざまな映像でオマージュをされたり、パロディ化されたりしている。
なお、この後ろのほうにいるうちのひとりがアレン・ギンズバーグである。そう、時はビートニクの時代だ。
そういえば鈴木慶一が高橋幸宏と組んでいたユニットの名前はザ・ビートニクスだった。彼らは1987年のライヴでディランが書いた「ミスター・タンブリンマン」をカバーしていた。
そしてディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」は傑作『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』に収録されている。「マギーズ・ファーム」、先ほどの「ミスター・タンブリンマン」、「イッツ・オールライト・マ」など数々の名曲を収録しており、ぜひとも聴いてもらいたいアルバムである。
ボブ・ディランは1962年にデビュー。新時代のフォークシンガーとして一世を風靡し、世界中にショックを与えた。それから数年後、彼はフォークロックへの転向を宣言、サウンドのエレクトリック化によって、大きな波紋を巻き起こした。数えてみれば、もう60年にもわたって第一線で活躍し続けている巨人である。
『ドント・ルック・バック』は、そんなディランの若き姿をとらえたドキュメンタリー映画だ。公開は1967年で、収録されたのはその2年前、1965年に彼が行ったイギリスのツアーの同行記。監督はロック界隈の作品が多いD・A・ペネベイカーである。収録当時のディランは24歳。
この映像には、とにかく驚いた。その最大の理由は、ディランが弾丸のように語り、相手に向かって話しまくり、そこに攻撃性さえ見せていること。80年代に彼を知った自分にとって、それはあまりにも想像とかけ離れた姿だったのである。
で、僕がボブ・ディランを聴くようになったのは1984年頃のこと。高校時代に浸ったブルース・スプリングスティーンはデビュー時にディランズ・チルドレンと呼ばれており、スプリングスティーンのレコードを貸した友人がライナーノーツを読んで、「これはどういう意味?」と訊いてきたものだった。それから自分はボブ・ディランを聴かないといけないなと思い、代表作を買い始めたのだった。
当時のディランはすでに神格化されていて、若いロックファンの多くはその頃の彼というより、過去に残したいくつもの名盤や傑作から知るような存在だったと思う。僕はディランを聴いて「とても深くは理解できないけど、この歌、この言葉にはすさまじい何かがあるな」と感じた。
そうしていくつもの曲を聴くうちに、初めてディランのライヴを観る機会が訪れた。それは1986年、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズをバックに従えたディランが来日することになった時だ(トム・ペティも大好きなアーティストで、彼らの演奏を目の前で見れたのはこの時が最初で最後になってしまったのは残念である)。
そうして僕は大阪城ホールに赴き、最高の時間を味わった(そういえば、あのライヴの直前に会場の前で、高校時代の、さっきとは別の友達と会ったのを思い出した)。この時はトム・ペティたちと一緒だったせいなのか、クライマックスでいかにもライヴ的な熱い盛り上がりがまだあった。最後のほうの曲のコーラス部分で、ふたりで一緒のマイクに向かって唄ってたし。近年のディランのステージには、そうした熱気のような興奮はそれほど強くない。もっとも、それだけではないものが心の底に残るパフォーマンスになっているわけだが。
ただ、この1986年時点で、ディランはもうコンサート中にほぼMCをしていなかったと記憶している。それはその後、何度ライヴに足を運んでも同じくで、それどころか、いよいよ何も話さなくなっていったのだ(直近2回の来日は観ていないが)。たとえば曲と曲の間に、客席を煽る言葉や、さりげないひとことを言ったりすることすら、ない。基本的に、唄い、演奏するのみなのだ。
そうして年を追うごとに、僕もディラン独特の感じが認識できるようになっていった。といっても、先ほどの80年代に抱いたディランを深く理解できない感じ、よくわからない印象は、今も続いている。もしかしたらそれは自分の読解力の低さのせいかもしれない。かと言って、ディラン研究家のような方々の分析や感想をたどっても、確信めいたことはほとんど得られない。
よくわからない。理解しきれない。つまり彼はそういうアーティストであり、そういう作品性なのだと思う。
現代は、歌でも言葉でも、映像でも活字でも、音でも何でも、とにかく「なるべくわかりやすく」「簡潔に」「伝わりやすく」ということを心がけるよう言われる。とくにここ日本では。さらには「多くの人が共感できるものを」とか「できるだけキャッチーに」なんて言う制作者もいるだろう。ところがディランは、ことごとく逆だ。
かと言って、ディランの難解さを良しとしているわけでは、決してない。僕もそういう表現が優れているとも思っていない。その表現が優れてるとか、深いとか、そういうところも、わりとどうでもいい。
とにもかくにも、理解しきれない。つかみきれない。とてもわかった気になれない。
それもまたボブ・ディランの表現のあり方、こちらの楽しみ方ではないかと思っている。
そして……これものちのち気づいたことだが、ディランの、このよくわからないというイメージは、最初に触れた80年代当時の彼がほとんど言葉を話さず、ほとんど自分の意見や考えを表明しないような人だったところから始まっている。
そんなふうに彼が話さない、語らない理由は、これまたよくわからないのだが……ディランは60年代からさまざまな議論や論争のただ中にいたような人だから、ある時期からは、そのひとつずつを説明したり釈明したりすることをあえて避けてきたのではないかと、僕は考える。その意味では、2017年のノーベル文学賞受賞の際に、それに対する気持ちや態度をなかなか表明しなかったのも、この人らしかった。
そんなふうだから、1985年にUSA・フォー・アフリカに参加して唄った時、あの唄い方で突然入ってきて、異様な存在感だけ残していくというたたずまいにも、後年は納得した(下記のMVでは3:47あたりになる)。
しかし、翻って、映画『ドント・ルック・バック』。この60年代半ばのディランは、とにかくよく話す。質問もたくさんぶつけられているが、それに対してたくさん返し、しゃべり、時に相手に噛みつく。それも激しく、熱く。
本映像の舞台は1965年のイギリスツアーで、ライヴのシーンも数多く、そのパフォーマンスの迫力にもグイグイと引き込まれる。しかし、より突き刺さってくるのはオフステージのディランの表情や言葉であり、そこで激しく議論し、熱く反論し続けるたたずまいである。
言いたいことを言い、戦うべきと感じた相手とは、手加減せずに戦いまくる。途中ではドノヴァンとやり合う局面も。こうした中には談笑するシーンや柔和な表情を見せる瞬間もあるが、先ほどの緊迫する場面のインパクトのデカさは、その比ではない。
ここにいるのは、何もかも本気の、24歳当時のボブ・ディランである。ディランって、ここまでトガりまくってたのか! こんなに攻撃的なところがある人だったんだ? 公開された60年代もそうだったと思うが、その後にビデオ化された80年代、さらにDVD化された2000年代でも、観た人の多くがそう感じたのではないかと思う。
で、ここからは想像、というか、たぶんこの解釈は間違っていないと思うのだが。
鈴木慶一は、この映画でのトガりまくったディランの若き日の姿を見て、件の「DON’T TRUST OVER THIRTY」という言葉を思い起こしたのではないだろうか。そう、記憶の中から、この言葉が蘇ったのでは?と思うのだ。
というのも、今回この映画を全編見直し、とくにディラン本人の言葉は注意して聞いたのだが、作中でその「30歳以上は信じるな」というフレーズが出てきた箇所はなかった。しかし本作での彼の、時に高ぶり、意見が異なる相手に対して果敢に持論を言い返していくシーンの中には、そうした意志のようなものを感じる刹那がある。
そう、「大人どもの言うことなんて信じられるわけねえだろ!」とでもいうような。
そしてこれは……「DON’T TRUST OVER THIRTY」は、主に60年代に叫ばれた言葉だった。
続いて、ここからは60年代に広まった「DON’T TRUST OVER THIRTY」という言葉について、である。
若者の反骨心を象徴したフレーズ「DON’T TRUST OVER THIRTY」
「DON’T TRUST OVER THIRTY」という言葉を最初に使ったのは誰か。これには諸説あるが、有力な説では60年代に学生左翼活動家として動いていたジャック・ワインバーグという人物だったとされている。
その発端は1964年のことで、ワインバーグは当時の若い世代の間で起こっていたフリースピーチ運動の急先鋒でもあった。先鋭的で、政治的であるその活動の発端は、アメリカの大学側から学生に対して政治活動を抑える動きが起こり、それに対する反発からだった。それはやがて大学構内全体に混乱をもたらすほどの激しさを持つこともあり、大規模な学生運動を引き起こすきっかけにもなったとのこと。
下記は、60年代当時のバークレー大学での暴動を記録した映画のトレーラー映像だ。(激しいシーンがあるので、閲覧注意)
これらはアメリカでの話だが、60年代後半から70年代初頭にかけての時代には、ここ日本でも学生紛争が起こっていた。21世紀に入ってからのデモは対話を求める穏やかな行動が主流になったが、この頃はとにかく激烈で、暴力も辞さない運動も多数。中には若い命を落とすようなデモもあった。
その中での若者、学生たちには、「30歳以上の大人どもなんて信じられねえよ」という気運があったのだろう。
この「DON’T TRUST OVER THIRTY」という言葉については、次のインタビューで、まさにその時代をくぐり抜けてきたフォークシンガーの中川五郎が触れている。この記事のインタビュアーはベテランの音楽評論家の田家秀樹。両者とも60年代の混沌を実体験しながら生きてきた存在なわけで、そうした人たちにはひどくリアルなフレーズなのだろう。
ちなみにこの中川、田家、それに鈴木慶一も、Facebook上で僕のフレンドになってくださっている。さらにはお三方とも、まったく別々に、過去にインタビューをしたことがある(いずれも敬称略で申し訳ない)。みなさま、ご無沙汰しております)。
話を戻そう。
つまり「DON’T TRUST OVER THIRTY」は、元は60年代半ば当時のアメリカの若者の、それも左翼の活動家が放ったメッセージだった。
ただ、80年代になってムーンライダーズがこの言葉を口にした時は、そうした政治色に寄ったものにはなっていなかった。そもそもこのバンドは政治的なメッセージや主張とは一線を画したところで生きてきた人たちである。
ただ、そんなバンドが、いざ30代を迎えた自分たちに、あえて喝を入れるかのように「30歳以上は信じるな」というメッセージを掲げたのは本当にすごいことだった。またしても、の自己批判だ。ただ、勘違いしてもらいたくはないが、これは決して自虐ではない。
ライダーズは、こうした高い自己批評性を持つバンドなのである。
さらに話をムーンライダーズのアルバムに戻すと。
映画『ドント・ルック・バック』の最初の公開は1967年だが、鈴木慶一がこの映画を観たのは『ドントラ』を制作する前らしいので、きっと80年代になって発売されたビデオテープ版を鑑賞したのだろう。そのビデオも、ディランが所属するソニーの国内版VHSは1988年の発売だったらしいから、1986年以前なら別のメーカーから出ていたVHS(あるいはβ、もしかしたら輸入ビデオだった可能性も)ということになる。
なお、2007年には『ドント・ルック・バック』のリマスター版がDVDになったり、同作はディランがフジロックで来日した2018年をはじめ各地で上映イベントが行われたりで、たびたび脚光を浴びている。また、ディランの優れたドキュメンタリー作品としては、マーティン・スコセッシが監督した2005年の『ノー・ディレクション・ホーム』もよく知られている。
ともかく、アルバム『DON’T TRUST OVER THIRTY』に込められたものの奥には、こうした60年代のユースカルチャーの野心の残滓があった。
それを自分たちに向けた事実に、ムーンライダーズというバンドに潜む気骨を、僕は感じる。
(ムーンライダーズ その5 に続く)