見出し画像

『真夜中のミサ』感想(ネタバレあり)

新約聖書「マタイによる福音書」第6章に、以下のような記述がある。
「何を食べようか何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。明日のことを思いわずらうな。」
高校生だった私はこの言葉を教会で聞いて、正直腹が立っていた。
明日のことどころか、数年先十年先数十年先のことまで見据えて(もとい、思いわずらって)綿密に立てられた細かいスケジュールを、若いみそらで毎日必死にこなし、「先のことまで考えて計画しないやつは馬鹿だ、失敗者だ」と毎日聞かされ続ける社会で育ち生きていた私にとっては、ずいぶん無責任な言葉だとしか思えなかった。こんな社会に生み落としておいて、なにが「明日のことを思いわずらうな」だ、と。明日のことを、先のことを思いわずらわずに済む世界を用意してから言えと。講壇を見上げ、得意げに聖書の一節を語る牧師を睨みながら私は苛立っていた。

それから十数年経ち、私は高校時代にあれだけ周到に計画させられた社会のレールだとかいうものに乗ってるんだか乗り損ねたんだかよくわからない二十代を過ごしとうとう三十路を越し、今日でも相変わらず明日の献立や今月末の支払いのことなどを思いわずらいながら生きている。会社というものに所属して「とりあえずは大丈夫」な地位を手に入れても、そんなものは砂上の楼閣であり、いつ崩れるとも知れない不安定なものであることぐらい、少し周りを見渡せばすぐわかることで、結局は永遠の安寧など存在せず、常に不安定な環境で生き続けるしかないと諦念を持ちながら生きることにももはや慣れた。そんななかでも転ばぬ先の杖で、五年先十年先を見据えて計画し日々行動することからは逃れられない。だからすっかり忘れていた、「明日のことを思いわずらうな」なんて言葉は。つねに思いわずらい続けることを宿命づけられているのだということを受け入れていた。

社会の求める通り、明日を、未来を思いわずらい計画し働き続けても、ついぞ何の結果も残せなかった人たちもいる。『真夜中のミサ』作中の、クロケット島の住人たちはみな人生に不満足だ。魚の獲れなくなった島、とぼしい財産。人生の中で何も残せなかった功績。挫折感。住人の大半は老いを迎え、「自分の人生はこんなものだ」と受け入れながらも、「まだこんなところで終わりたくない」とどこかで思っている。「まだ何も残せていない。何者にもなれていない」と。「『奇跡』でも起これば、一発逆転を狙えるのに」と。そして作中では、一発逆転の奇跡に縋ることでかえって追い詰められていく住人たちの姿が如実に描かれていた。
しかし『真夜中のミサ』でエリンは言う、「名前、人格、選択はぜんぶ後からついてきた。わたしは過去であり、未来でもある。そのほかは人生の途中で拾った、写真のようなもの。人生だと思っているものはただの夢に過ぎない。人生は夢。何度も何度も何度も、永遠に見続ける夢。いつ何時も全ては世界の一部。すべてのものは、一部。誰もが、一部。宇宙の銀河、それが私たちが『神』と呼ぶもの。宇宙と、無限に続く夢。私たちはそれぞれ、夢を見ている宇宙。私は全ての一部」だと。
『真夜中のミサ』のように、キリスト教(しかも、厳格なカトリック)を全面に打ち出した作品で、こうした自然回帰のような結論に至ると思わなくて驚いた。だがこのラストシーンのエリンの台詞を聞いた時、凝り固まっていた何かが氷解したような気持ちにもなったのだ。明日を思いわずらうこと。数十年の短い人生の中で、「会社員」でも「研究者」でも「なんとかコンサルタント」でも「なんとかクリエイター」でも「だれかの養育者」でもなんでもいい、なんでもいいから何かの肩書きを手に入れて、働き盛りと呼ばれる年齢の間にそれなりの活動をし、それなりの準備をして老後に備えなければ人生はまったくの無意味である、という強迫観念に突き動かされながら生きること。そこから少しだけ解放されたような気持ちになったのだ。そして思い出した、「明日のことを思いわずらうな」という言葉を。その言葉は、それを最初に聞いた十代の頃とはまったく印象が違っていた。「明日のことを思いわずらうな。『明日か数年後か数十年後かに、何かの功績を残していなければ自分という存在になれないのではないか、自分の人生が無意味に終わってしまうのではないか』などと思いわずらうな」と。あのマタイ第六章の言葉はそういうふうに私の中で再定義された。
それどころか『真夜中のミサ』作中では、「私たちはみな宇宙の銀河へと、わたしたちが『神』と呼ぶものへ還っていく」とまで言われたのだ。教会ではそんなことは一度も教わらなかった。私が教会で教わったのは、神とは絶対であり、人間は生まれながらにして罪深い存在であり、神は常に人間を監視し、裁き続けているということだった。
前述の通り、私は幼少期からある程度の年齢にいたるまで、キリスト教とは非常に密接な場所にいた。キリスト教の教義も信者もまったく否定する気はないし、「神なんかいない」と無神論者になるつもりもない。ただ、私にとっては、キリスト教は私を長らく苦しめるものであった。監視と裁きと原罪の考えに長らく縛られ、苦しんだ。「キリスト教に救われた」とはついぞ思えなかった。もっと言えば、キリスト教は優しくなかった、少なくともわたしにとっては。

いまはキリスト教からは離れたけれど、教会に通った日々の記憶は原体験のように私の中に残り、価値観、死生観、創作、いろんなものにキリスト教義の名残が垣間見られる。原体験なので強く抵抗する気はもはやないが、キリスト教義によって苦しんだ私の記憶や感覚も、いまだ苦々しく、私の中に根強く残り続けている。

そんな中で『真夜中のミサ』の「私たちはみな宇宙の銀河へと、わたしたちが『神』と呼ぶものへ還っていく」というセリフを聴いて、私の中のキリスト教、もとい「神」というものに対するただただ厳格さと恐れを想起させるイメージが少しだけ氷解したのだ。これは私にとっては大きな体験だった。作中で描かれる「奇跡」が、実は吸血鬼とその力を利用した司祭によって人為的に引き起こされたというストーリーにも驚かされた。奇跡によってキリストは神格化されているのだから、それを否定するようなストーリーにあえて挑戦したのは随分勇気のある試みだったと思う。
しかしそうやってキリストの聖性を強固にする「奇跡」が崩壊したことが、崩壊を許されたことが、私にとっては癒しだった。キリストの神格の象徴たる「奇跡」をあえて崩壊させ、「神なるもの」を再定義する様をフィクションとはいえ見せられることが、どれほどの驚きを持って私の目に映ったか。

『真夜中のミサ』のマイク・フラナガン監督はアメリカ出身だという。おそらく私のように、いや私以上にキリスト教を身近にして育っただろう。キリスト教圏から発信される、キリスト教をテーマにした作品において、キリスト教というものがキリスト教圏出身者たち自身の手で再定義されることが、もしかしたらかの地ではいま求められている時代にさしかかっているのかも知れない。そしてそれは、極東の地に住む私にとっても、救いであり、また癒しでもあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?