見出し画像

呪殺レベルの世代交代『アッシャー家の崩壊』感想(ネタバレあり)

フラナガン作品は以前から大好きで、『真夜中のミサ』と『ホーンティング・オブ・ブライマナー』で体調崩すレベルで号泣し、『ホーンティング・オブ・ヒルハウス』も『ジェラルドのゲーム』も全部好きなので、『アッシャー家の崩壊』も楽しみにしてました。

『アッシャー家の崩壊』は相変わらずフラナガン節炸裂で、十分に見応えはありました。ただ、既存作品が多いせいもあるのか若干新規性に欠けるような気がしたのと、少しひっかかる部分もあるので備忘録的に書いていこうと思います。(※ネタバレしています)

呪殺レベルの世代交代

私はこの作品を、「エグすぎる世代交代」だと思ってみてました。ロデリック・アッシャーをはじめ、その子どもたちの権威主義、成果主義、拝金主義は、日本でいうところの「昭和的思想」にあたるでしょう。それよりも、人の善意や思いやり、人間らしさを重視するレノーアのような思想は「Z世代」的だと言えます。
人間性を無視し、苛烈に追い詰めるやり方で大企業という帝国を維持するやり方は、現代では通用しません。いつか終わりを迎えます。社会のあり方が移り変わっていく様子を、アッシャー家の人間の呪殺というエグい手法で描き切ったのがこの作品だと言えます。

引っかかりポイント①:レノーアは殺さなくてよかったんじゃね?

前述の通り、この作品のテーマの1つが「思想的な世代交代」であるならば、ロデリックの子孫でありながら彼の思想に染まっていないレノーアが死ぬ意味はなかったんじゃないでしょうか?

死神の女の人との契約上、ロデリックの孫も死なねばならなかったと解釈できますが、不条理な契約というよりは思想テスト的な意味合いが強かったように思います。ロデリックが権威主義に陥っていかなければ、子どもたちも善良な人間に育っていれば全員見逃してもらえていたのかもしれないのですから。彼らは頑迷な思想に他者を巻き込み多数の犠牲者を出したから全員呪殺されたのです。その証拠に、みな権力と名声と金に取り憑かれ、なかば自業自得のような形で死んでいきました。

レノーアが死ななくてもよかった理由のもう一つはジュノの存在です。ロデリックの血を引いてないから生き残ったとも言えますが、ジュノは唯一ロデリックの薬で中毒にならなかった、つまりロデリックを愛しながらも彼の負の影響を受けなかった人間です。タミーに「家族になりたかった」と素直に心情を吐露し、ブランドのお披露目会にもわざわざ出席してくれてます。要はいい人なんです。ジュノと一緒にレノーアも生き残れば、「実は血筋じゃなくて思想で選定されてたんだな」とわかります。これだけ思想というものに焦点をあてて描いてきたのですから、思想関係なく殺されちゃったら筋が通りません。

「負の遺産も思想の転換によって断ち切り、呪縛から解き放たれることはできる」と示されればよかったのですが、思想関係なく血筋だけで殺されちゃったら「死神さんもけっきょく血統主義なの?」という疑問が出てきてしまいます。

我々はみんな前の世代の子孫です。負の遺産を断ち切り、生きやすい社会にするには前時代的な思想に支配されていることに自覚的になって、それを変えようしなければなりません。「変われるんだ」ということを信じれなければ、無気力になってなにもできず、結局大きいものに飲まれていくだけですよね。「奴らの血を引いている以上どんなに清い心を持っていようと関係なくお前も死ぬんだ」になっちゃったら、見てるほうも救われなくないですか? ホラーの中に救いと癒しを提示してくれるのがフラナガンじゃなかったのかあああ。

引っかかりポイント②:そんなにポー作品と絡めなくて良かったのでは

作中には、ポー作品のオマージュがたくさん出てきます。黒猫。壁の中の死体。それはそれでミステリアスで良かったんですが、無理にポーと絡めようとした結果なんかそこだけ浮いて見えちゃって「?」になるシーンがちょいちょいあったと思います。

私が一番心を動かされたシーンは、若き日のロデリックが裁判の準備をしていたのに最後の最後でデュパンを裏切ってフォーチュナート側についたシーンです。
裁判前に息子の顔を見せられ、理想よりも実利を取ることを選んだロデリック。正しいことをするという心を失った代わりに、その家族にも多大な奉仕を強いる強固な家族主義に邁進していくきっかけになったできごとだといえます。
ここまではよかったんですけど、そのあとマデラインと一緒にフォーチュナートの社長を壁の中に埋めるシーン、シーンとしてはインパクトあるしいいんですけど、なんか非現実的すぎて。ロデリック的には「理想に従い正しいことをする」が非現実的で、「フォーチュナートにおもねり内部から乗っ取る」が現実的だという結論にいたったんだろうとおもうんですが、壁の中に生き埋めにするほうが非現実的じゃん? シビアな現実主義者になったんじゃなかったの?

べつに無理にポーと絡めなくていいのにな〜と思いました。そこに尺割くんだったらいつものフラナガン節で、繊細な心理描写をじっくり見せて欲しかったかな。父親としての苦悩とか、最初は家族のためだと思っていたのにだんだんと非人道的な人間になっていった過程とか。余談だけど、フレデリックの思い出しか語られずタミーはほとんどでてこないのが、「男児だけ可愛がる親」って感じで普通に胸糞。胸糞なのはいいんだけど、胸糞と同情のいい塩梅がとれてたら情緒がメタメタになってもっと酔いしれられたのにな〜と。フラナガンはその塩梅が絶妙だから、毎回情緒メタメタにされるのを楽しみにしてたんだけどな。

批判ばっかりもアレなんで好きなシーンを

5話のヴィクトリーヌが恋人の死体の心臓に機械をつけて、「役立たずの心臓を動かしてるだけ」って言うシーンでバチクソ泣いたな〜。
何も感じず、ただ心臓を動かし続けていられれば楽だったし、パパの期待にも応えられたのにって。「役立たずの心臓」は、恋人のじゃなくて自分のこと。パパの子なのに、良い心臓じゃなかった。機械の心臓か、頑丈で何も感じない、ほとんど機械みたいな心臓ならよかったのに。
ブライマナーのハナでもバチクソ泣いたんだけど、タニア・ミラーの役どころで毎回バチクソ泣いてしまいます。フラナガン作品に永遠に出続けてほしい!

とりあえずこんなところです。全体的にすごく良かったし好きなんだけど、「もうちょっとそこ…かゆいところに…アァ〜ッ」てかんじで、若干の不完全燃焼はあったかな。
いつもは権威主義の優しい解体をして癒しを与えてくれるフラナガンもアッシャー家には容赦なくて、フラナガンの父親ってロデリックみたいな感じだったんかな? と思いました。

マイク・フラナガンの次回作も楽しみにしてます!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?