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祖母の高菜漬け

クラフトビールを作るようになって、学校で習ったような知識が必要になることがある。あの頃は「そんな知識がいつ役に立つんだよ。受験のためだけだろ」と斜に構えていたが、今は本当に必要としている。比例は糖分を計算するのに日常的に使用する。風味に大きな影響を及ぼすpHはイオンやモル濃度の知識が必要になる。温度の制御にはカロリー計算の知識が役にたつ。大気圧下で1kcalは1Lの水を1°C上昇させるというものだ。あんなに嫌で5年も勉強することになった電気回路や三相交流の知識も、設備の導入やメンテナンスで役立つことになった。

これらの知識は一度は定期試験に合格するぐらいには身に付き、その後数十年間、思い出すことはなかったが、ビール作りに必要になった際には蝶番の油が切れたドアを無理やり開けるような感覚に襲われた。脳は使わないと衰えてしまうのだ。

私は熊本育ちの祖母が作ってくれる高菜漬けが大好きだった。黙ってニコニコしながら富士山の雪解け水で入れてくれるお茶でいただくのだった。その祖母は脚を骨折してから施設に入り、急速に認知症が進んでしまった。ある程度の認知症の症状がないと施設入所が難しいため、はじめは過剰に認知症と診断されたと祖母と共に家族で笑ったものだが、その診断が正しかったことはすぐに明らかになってしまった。目立った異常行動はなかったようだが、明治神宮で表彰されたこともある短歌を読むことをやめ、だんだんと話し方がゆっくりになり、自分が何を求めているのか伝えるのも億劫なようだった。私と私の父との区別も曖昧になった。祖母の認知症はアルツハイマー型ではなかったので、その様子が残念だった。身の回りのことを他人にやってもらうことになり、頭をあまり使う必要がないというのが習慣づいてしまって、脳の機能が徐々に衰えてしまったのだ。

コンピュータの仕事からクラフトビール作りをするようになって、新しい知識を吸収し、学校で習ったことを改めて復習するようになった。今度は試験勉強のためではなく、本当に必要なことを必要なだけ参考書をめくる。何を習ったかは覚えているので探すことはできるし、カンニングだってし放題だ。祖母の高菜漬けはもう食べられないけど、きっと大事なことを教えてくれたのだ。