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サーフィンに出会った冬。

僕がサーフィンを始めたのは22歳になったばかりの12月のバリ島。理由は単純。日本が寒かったから。と、自由を楽しむサーファーたるものに憧れていたから。


当時の僕は大学を休学していて、フィリピンとアメリカに語学留学後、南米をバックパック1つで縦断。その後、東京の古民家ゲストハウス「toco.」で住み込みスタッフをしていた。

大学をもう1年休学するか、復学して就職活動をするか悩んでいた。

その時、「toco.」を運営する株式会社Backpackers' Japanの代表のヒロさんがサーフィンをしていると話してくれた。
「よう。(アメリカ時代、僕はひょんなことから”よう”と呼ばれるようになった。)サーフィンは面白いぞ!こんなに気持ちよくて楽しいスポーツ他にないよ。やればいいじゃん。」

いきなりの言葉だったが、代表=スゲー人くらいしか考えがなかったアホな僕は、つい嬉しくなって「やります!」と言っていた。だけど、正直サーフィンはずっと気になっていたものでもある。


それまで僕は小学生から大学生までの15年間、野球しかしてこなかった。海とは無縁の田園地帯に生まれ、遊びといえばキャッチボールやバッティング。
高校では甲子園出場を狙える県立高校に進み、実際に先輩たちが甲子園に出場しベスト8、自分たちの代では副キャプテンを務めた。

とにかく毎日練習。100名近い部員間での激しいレギュラー争い。上の立場ゆえのプレッシャー。ひとつのミスで次の試合のメンバーから自分の名前が消える怖さ。副キャプテンにも関わらず、グラウンドに出るのが億劫になることもしばしばあった。

もちろん勝負に勝つ喜びも味わった。格上の私学相手から勝利をもぎ取る嬉しさは、それまでの苦しさを一気に吹き飛ばした。それが自分たちの自信になり、また勝利を目指して厳しい練習に取り組む。
いつしか公立の雄と呼ばれるようになった。


けれども、この競争のサイクルを一生繰り返していきたいのか、とふと自分に問いかけたことがあった。


「スポーツとは相手に勝つもの」と、勝つことに貪欲になりすぎていたから、自由に、それぞれのスタイルで波に乗り、楽しむことが文化のひとつになっているサーフィンというスポーツに、いつしか心が引き寄せられていた。何より、彼らの顔つきが全く違って見えた。僕らには眉間にしわがあり、彼らにはよく笑う人にある、あの目尻のしわがたくさんあった。

それから「toco.」を卒業し、地元のペンションでリゾートバイトをしてお金を貯め、またバックパック1つ片手に一人でバリ島に行った。

サーフィンをすること。それだけが目的だった。

季節は12月。関西空港から約7時間のフライト。空港を降り立った瞬間のあのアジアの蒸し暑い匂い。車と人の雑踏。遠くに見える入道雲とヤシの木。

バリは常夏だった。

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