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ぼくはなぜ文章を書くようになったのか(前編)

書くことは考えることだった

大学3年生の頃までは、まさか自分が将来ライターになるなんて思ってもいなかった。中学・高校で国語はいちばんの苦手科目だったし、大学も理工学部に進んだ。書くのが得意だとは一度も思ったことがない。

ただ、高校生の頃はときどきノートに日記を書いていた。当時から内省的な人間だったから、サッカーや将来の夢や受験勉強や人間関係のことについて悩んでは、ノートに書き出すことで解決の糸口を見つけようとしていた。

「今回はうまくいかなかったけど、ここで諦めたらダメだ」
「強いシュートを打つためには、軸足が重要。しっかりと踏み込む。そしてボールの芯をとらえ、ひざ下を速く振り抜く」

みたいなことを、色々と書いていた。何かに悩んでも人に相談できない性格だったから、自分と対話し、励ますためのノートでもあった。

大学に入ると、書く場所は紙のノートからmixiに移行した。気付けば毎日のように日記を書いてしまうので、「他の人はたまにしか更新しないのに、どうして自分だけこんなに日記を書いているんだろう。おかしいんだろうか」と悩むことも多かった。

「大学では静かなのに、mixiだとよく喋る」「キャラが違う」と言われてそれもまた落ち込む要因だった。ぼくは1対1なら平気だが、大人数で話すことは今でも苦手で、自分の意見や感情を複数人に向かって言うことがなかなかできない。「こう言ったら相手はどう反応するだろうか」「どう思われるだろうか」といちいち周囲の目を気にしまう。

その点、文章を書いている間は安心できた。他人のことを気にせず、自分のペースで考えることができる。そう、ぼくにとって、書くことはすなわち考えることだった。自分が何を書くのかは、書き終えるまでわからない。だけど書き出せば、きっと良い方向に思考が向かっていく。物事を考えるために、自分の感情を整理するために、「書く」という「ツール」を使っているような感覚だった。

2年間のオーケストラ生活

大学では、早稲田大学交響楽団に入った。かつて兄が所属していたオーケストラサークルということもあり、クラシックが好きなぼくは「どんなものなのかな」とリハーサル見学に行ったところ、「これが学生のレベルなのか」と驚くようなベートーベンの交響曲を聴いてしまい、魅了された。「初心者歓迎」というポスターを鵜呑みにし、オーボエを始めることにした。「大学では新しいことをしたい」と思っていたからちょうどよかった。

2年目の冬には、3週間のヨーロッパツアーを行った。ドイツ・オーストリア・フランスの全11都市で演奏する。そのときにはぼくは和太鼓奏者に転身していた。オーボエを吹いて一年が終わる頃、全体集会が開かれ、「一年後に控えるヨーロッパツアーでは、和太鼓とオーケストラの協奏曲をやる。その和太鼓奏者が7人必要で、団員から募集する」という趣旨の話があった。

ヨーロッパの聴衆に日本文化を披露できるなんて、かっこいいじゃないか。安易にそう思ったぼくは「興味があります」と幹部に伝えた。それから和太鼓チームが組まれ、一年弱、授業もそっちのけで厳しい練習を積んだ。努力の甲斐あって、ヨーロッパツアーは成功に終わった。ベルリンフィルの本拠地ホールをはじめ、各所でスタンディングオベーションを受けて、それは一生涯の経験となった。

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ヨーロッパから戻ってきて、大学3年の6月にサークルを辞めた。卒業までまだ2年弱あったのだが、ヨーロッパで味わった以上の経験を、この先のサークル生活で味わえる気がしなかった。それよりも、残りの2年間は今までできなかったチャレンジをして悔いのないように大学生活を送りたい。それまで友人と3度行った自転車旅を、もっと長期で行きたいとも思った。

浪人時代に予備校で出会い、同じ早大理工学部に進んだシンゴと、ぼくは1年生の夏に2泊3日の自転車旅をした。箱根を登り、相模湖に泊まり、ヤビツ峠を越えて、神奈川県を一周した。自分の足で移動し、知らない風景と出会う、その小さな冒険がたまらなく楽しかった。

大学2年の夏には房総半島を一周し、3年のGWには郡山から金沢までの一週間の旅を行った。世界は少しずつ広がっていった。そしてサークルを辞めてようやく長い夏休みをフルで使えることになった。またシンゴを誘ったが、「1ヶ月も洋太と過ごすのはさすがに無理」と断られたので、「まあそうだよな〜」と思いながらぼくは一人旅の計画を立てた。

何事も、やってみなければわからない

はじめは自転車で九州を一周しようと考えていたのだが、「どうやって九州まで自転車を持っていく?」と考えたときに、梱包して飛行機に積むことを考えるのが面倒になって、「どうせならここから九州までも自転車で走ってしまおう」という考えが生まれた。その方がおもしろい。

自転車で世界一周した石田ゆうすけさんの『行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅』という本の影響もあった。神奈川県から1500kmも走れば九州にたどり着くのだから、行けないこともないだろう。だって何万kmも旅する人がいるのだから、と楽観的に考えていた。ただ、それが初めてのひとり旅だったから、やはりそれなりに不安は大きかった。

ある日、授業中に日本地図帳を開いて旅の計画を立てていると、後ろの席から「なんで日本地図見てるの?」と声をかけられた。

「夏休みに、自転車で九州まで行くんだ」

「は?(笑) 無理に決まってんじゃん」

学科の友人のひと言は、ぼくにとって衝撃だった。なぜ、やってもいないことを、無理だと決めつけるのだろう。ぼくは珍しく、怒りっぽくなった。

「お前やったことあるのかよ?」

「あるわけないじゃん。だって無理だもん」

とにかく「無理」の一点張りで、会話にならなかった。しかし、彼に言われたおかげで、ぼくはこの挑戦との向き合い方について真剣に考えるようになった。

確かに、自分が九州まで行けるかどうかは、やってみなきゃわからない。もしかしたら、広島で身体に限界が来て、そこでリタイアとなるかもしれない。でも、「今の自分には広島まで行けて、広島からは先は行けなかった」とわかることは、決して失敗ではなく、清々しい体験なのではないか。やる前からできないと決めつけるのではなく、やってみて判断したい。結果できなかったとしても、それでいい。

「やってみたけどできなかった」と言うことは、「やらずにできない」と言うことよりも、よっぽど崇高だ。ぼくはそういう気持ちを持ったうえで、「でも絶対九州まで行ってやるからな」と思った。あいつを見返してやる。

2 西日本コース図

1ヶ月間の旅に、両親は心配した。母は比較的「やってみたらいいじゃない」というスタンスだったが、父は真逆で、「自転車でそんなに走ったら、有毒な排気ガスをたくさん吸うことになるんだぞ」「事故に遭うぞ」と、とにかく不安を煽ってぼくを止めようとした。

それでもぼくは行くと決めていたから、引き下がらなかった。ただ、毎日メールで両親に報告するのは面倒だったから、旅の直前にブログを開設した。

「ブログに毎日日記を書くからさ、それで安否確認して」

そのような経緯で始めたブログが、ライターという道を志すきっかけになるとは、もちろんそのときにはわからない。人生はおもしろいものである。

2009年8月12日。未知の土地に想いを馳せたぼくは、重い荷物にふらつきながら、横須賀を出発した。

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(つづく)


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