ピアノを練習する日々
最近の生活の変化といえば、ピアノを弾くようになったことだ。10日ほど前に中古の電子キーボードを手に入れてから、毎日1時間は練習している。そろそろ書き残しておかないと、「どうしてピアノの練習なんて始めたの?」と聞かれたときに「さて、どうしてだっけな?」ということになりかねないので、記憶が定かなうちに書いておくことにする。
34歳にもなってピアノの練習を始めたのは、兄の影響が強い。ぼくには2人の兄がいて、今回は12歳離れたベルリンで暮らす長兄の方だ。その兄は今から1年半前、彼の息子(甥っ子)がピアノを習い始めるのと一緒に、自身もピアノを始めた。学生時代は熱心にフルートを吹いていて、ベルリンに移り住んでからもときどきアマチュアオーケストラで活動していた兄だが、ピアノの経験はなかった。だから最初はもちろん、下手だった。
だけど少し前に、モーツァルトのピアノソナタを練習する兄の動画が家族のLINEグループで送られてきて、ぼくは少なからずショックを受けた。というか、自分の兄のことながらかなり感動した。45歳から初心者でピアノを始めて、わずか1年半でここまで弾けるようになるものなのか、と。大袈裟かもしれないが、それは「人間の可能性」を感じさせるものだった。以前、「90歳から英語の勉強を始めたおばあちゃん」に取材したことがあるが、そのときと同様の感動を覚えた。人は何歳になっても、新しい挑戦を始めることができるのだ。
たどたどしさはあっても、左手が滑らかに動いているのがまずすごいし、何よりちゃんと両手で弾けている。兄は「どんなに忙しくても毎日30分は練習している」とのことだ。その日々の努力も含めて素晴らしいと思った。
5月15日にその映像を観たとき、ぼくは本能的に「ピアノをやりたい」と感じた。そしてその日のうちに、近くのピアノ教室をいくつか調べ、良さそうな教室の先生にメールを送った。
すると、翌5月16日の朝に教室から返信があった。
ぼくは何も準備せずに体験レッスンに行けるものだと思っていたので、「何かピアノの楽譜をお持ちで、少しでもお弾きになれる曲はありますか?」と聞かれたのは誤算だった。「体験レッスンのために練習する」なんて変な話だけど、でも逆の立場で考えたら、先生がそうおっしゃるのも理解できる。体験レッスンは無料だし、やる気のない人、続く見込みのない人に気軽に来られても困るだろう。楽譜を用意して、少しでも練習して臨むくらいの意気込みがないと、大人になってからのピアノ教室通いなんてきっと続かない。
ぼくはその日のうちに楽譜を買った。今は「ぷりんと楽譜」という便利なサービスがあって、サイト上で欲しい楽譜を検索し、控えた番号をコンビニのマルチコピー機で打てば、数百円で楽譜が印刷できてしまうのである。ぼくは高校生の頃に趣味で練習していたラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』と坂本龍一『Put your hands up』の楽譜を手に入れ、翌5月17日、川崎のピアノスタジオを予約した。
ピアノは小さい頃に少し習っていたが、練習がとにかく嫌いで、先生にも怒られるばかりで、当時は全然楽しくなかった。高校生の頃はときどき家でピアノを弾いたが、趣味で遊んでいただけだったから、ぼくがピアノを一番うまく弾けたのは9歳か10歳くらいの頃だろう。でもそのときはどんな曲を弾いていたかさえ覚えていないし、技量的にどのくらい弾けたのかも思い出せない。発表会などで弾いた記憶もないし、少なくとも大して上手な生徒ではなかった。
高校や大学生の頃はクラシック音楽に夢中になり、ピアノ協奏曲や交響曲、室内楽と様々なジャンルを好んだが、今でもよく聴いているのはバッハのピアノ曲である。平均律クラヴィーア曲集や6つのパルティータ、フランス組曲、ゴルドベルク変奏曲、インベンションなどなど。なんだかんだ、これが一番落ち着くのである。少しでもいいからバッハの曲を弾けたらいいなと思っている。
ピアノスタジオは無人で、30分500円で借りられた。ぼくは朝、1時間練習した。数年ぶりのピアノだったが、ありがたいことによく弾いた2曲だったので、ある程度は指が覚えていた。和音の喜びに浸り、気付けばあっという間に1時間が経った。楽しい。
ぼくは我慢できず、午後に再び1時間予約し、また細かいところを何度も練習した。これで一応、体験レッスンで弾くくらいの準備はできた。しかし、再度ピアノ教室に連絡するのには、まだ踏ん切りがつかなかった。それは、「ピアノを持っていない」という問題があったからだ。
必ずしもピアノを所有しなくても、こうしてピアノスタジオに通えば練習はできる。でも2時間で2000円かかって、おまけにまだまだやりたいという気持ちになった。これは、思い切って買ってしまった方が安上がりなのではないか。
そこで次は、どんなピアノなら狭いアパートの部屋でも置けそうか、という検討に移った。体積の大きい電子ピアノはスペース的に無理だが、平板な電子キーボードなら良さそうだ。ただ、本物のピアノと同じ「88鍵盤」だと横に長過ぎてテーブルに収まらない。かといって61鍵盤だと物足りなさを感じるだろう。だから中間の76鍵盤に目星をつけた。76鍵盤あれば、大抵の曲はカバーできるはずだ。
数日間あれこれ迷ったが、中古で欲しかったヤマハの電子キーボードを見つけたので、「えいや」と1万9000円で購入した。そして5月23日の夜に届いた。テーブルにセッティングして、早速練習した。最高に楽しい。さっさと買って良かった。
ぼくはメルカリでバッハの『インベンション』の楽譜を買った。今は中古でいろんな楽譜が手に入る。便利な時代だ。ただ、案の定インベンションは難しかったので、川崎の島村楽器に行って、『プレ・インベンション』という楽譜を購入した。ぼくのレベルでも練習すればギリギリ弾けそうな比較的簡単な曲が並んでいて、それらを地道に繰り返していけば着実に『インベンション』への道が道が拓けてきそうな予感があったからだ。
そして冒頭でも書いたとおり、電子キーボードが届いてからこの11日間、毎晩1時間ほど練習している。最近はよく夕食を自炊していて、ご飯を食べたら近所のマックでコーヒーを飲みながら小説を読み、22時くらいに家に帰ってピアノを練習するという日々が続いている。その生活に豊かさを感じる。
ベルリンの甥っ子がバッハのメヌエットを弾けるようになり、ちょうど『プレ・インベンション』の中にもその楽譜があったので、ぼくも同じ曲を練習することにした。誰もが一度は耳にしたことがある、ピアノ練習の定番の曲だ。だが、これがいざやってみると意外と難しい。運指と、両手で合わせることがなかなかスムーズにいかない。それでも数小節ずつ、毎日練習するうちに、5日目にして暗譜で弾けるようになった。そして日に日にミスが減っている。こういう小さな成長を実感できることって大人になると極端に減るから、とても嬉しいことである。やっているのはピアノだが、ピアノ以外でも「自分はまだまだ成長できるんだ」という前向きな気持ちになってくる。
と、これがこの3週間のピアノに関するおよその出来事である。これでピアノ教室に通う準備は整ったのだが、体験レッスンの申し込みはまだしていない。6月と7月に3回旅行が続くので、せっかく通い始めてもいきなり「旅行で来週はお休みします」とも言いづらいし、何より旅行中ピアノの練習ができなければ感覚は鈍るだろう。貴重なレッスン時間を台無しにしたくない。些細なことでモチベーションが下がるのは嫌なので、しばらくはひとりで練習してみて、また7月中旬くらいにピアノ教室を再検討してみようかなと考えている。飽きっぽい自分だが、せめてそれまではモチベーションが続いてほしいと願うばかりだ。
最後に、先日読み終えた村上春樹『ノルウェイの森』に出てくるレイコさんのセリフを引用して終わりたい。
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