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講演のための思考メモ(22)通帳残高1万5000円からの大逆転

フリーランス2年目の2018年に入った時点で、もうほとんど貯金はなくなっていた。1年目は会社員時代の貯金でなんとかやり過ごせたが、資金は限界に近づいていた。

ろくに稼げていないうえに暇な時間も多かったので、ぼくは半年間、アルバイトをすることになった。2018年1月、たまたま知り合ったNPO法人の代表の方に、「人手が足りないので、仕事を手伝ってもらえませんか?」と声をかけられて、断る理由もないので、週2日オフィスに通い、事務作業を手伝っていた。

当時は「まさか自分がアルバイトをするなんて」と恥ずかしさを抱えていて、人に言えなかった。「これからは好きなことだけをやって生きていくんだ」と宣言してフリーランスになったから、変なプライドみたいなものがあった。

でも、お金がなかったからやるしかなかったし、その半年間を通して、アルバイトに対する考え方が変わったのも事実だ。作業としては、Excelの入力とか、頼まれたものを買いに行ったり郵便局に封筒を出しに行ったりするおつかいなど、誰でもできる簡単なものだった。ときどき資料作成で文章を書くこともあったが、ライターとしての高度なスキルはさほど必要とされない。つまりそのオフィスにいると、「フリーライター」としての人格がほぼ消失する。それでもなぜか、意外なまでに心地良い時間を過ごせた。

まず、その時間オフィスにいれば、確実にお金がもらえる。フリーランスの厳しさを実感していたぼくにとって、これはちょっと衝撃的なことだった。普段、原稿を書くために考えごとをしても、手を動かさなかったら1円ももらえない。しかしアルバイトの場合、さほど頭を使わなくても(多少は使うけど)、一応作業していればお金をもらえる。「何を当たり前のことを言っているんだ」と思われるかもしれないが、このことのすごさ、ありがたみは、フリーランスを経験した人には共感してもらえるのではないだろうか。

「中村さん、シュレッダーお願いします」と頼まれて、莫大な量の書類をひたすらシュレッダーにかけ、それだけで1時間が過ぎてしまったとき、「これでお金がもらえるのか・・・」と感動した。ぼくは人生のハードルを勝手に高くし過ぎていたのではないか。肩に力が入り過ぎていたのではないか。アルバイトを経験して、生きることに対してちょっと気持ちが楽になった。

そして、オフィスに行けば人と話せる。代表の女性は元マッキンゼーの素晴らしく優秀な方で、過不足ない説明、的確な指示出しにいちいち感動した。「なんと無駄がないのだ。世の中にはこんなすごい人がいるのか」と驚いた。これもまた良い刺激だった。

ずっと歳上の女性だったが、彼女から学べたものは大きかった。優秀な人のそばで働くと成長できる。そして指示が的確で理に適っていると感じると、こちらのモチベーションも上がる。ひとりで働いていては、気付けないことだった。

この頃から徐々に、「フリーランスの限界」について考えるようになった。

あるとき、『フリーランス、40歳の壁』という本を書店で見つけて、何気なしに買って読んだ。フリーランスは40代に入ると、極端に仕事が減る、ということが書かれていた。

「自分は40歳になっても、今と同じようなギリギリの生活をしているんだろうか」と想像して、絶望的な気持ちになった。「フリーランスってこんなに大変なのか。もう無理かも・・・」と何度思ったことか。

夜中にハッと目が覚めて、震えて泣いていたことがあった。そんなこと初めてだった。自分の将来について、言葉で言い表せないほどの強い不安を感じた。

「収入が少なくても、やりたいことできていればまあいいじゃん」という考え方もあるが、ぼくはちゃんと収入も得て、小さなことで悩まずに生きていきたい。それを考えたとき、「人と関わらずに仕事をしていては、成長が止まるな」と感じた。やはり、優秀な人と一緒に仕事をすることで新しい学びが得られるから、フリーランスでありながらも、そういう環境に身を置けたらいいな、と思うようになった。

そして、そう思っていると、チャンスは予想外の角度からやってくるものなのだ——。

ぼくはときどきアルバイトを休ませてもらい、海外へ出た。「わかりました。ちょっと忙しい時期ですけど、なんとかやります。楽しんできてください」。代表の女性は、ぼくの野心を理解してくれていた。「行きたいところへ行って、書きたい記事を書くんだ」と意気込み、自己投資の旅を続けた。

2〜3月:ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ポーランドの旅(2週間)
4月:深セン、香港、マカオの旅(1週間)
4月:韓国の旅(1週間)
6月:サッカー・ロシアW杯観戦の旅(2週間)

香港にて

現地で様々なモノを見て、感じたことを記事にする。TABI LABO、そして阪急交通社や朝日新聞社のWebメディアなどで書いた。

旅は楽しかったし、そこでの学びや気付きを記事にして届けられることにもやりがいを感じた。でも、好きなことをやるのと、それで稼げているかどうかは、また別の話だ。

原稿料は、記事1本あたり1.5万〜2万円程度のもの。出張費なんてもちろん出ない。仕事になるかどうかもわからない状態で、自腹を切って海外へ行って、なんとかネタを見つけて数本の原稿を書いて、稼げるのはせいぜい数万円の世界。それで旅費をカバーできるはずもなく、海外に行けば行くほど赤字になる一方だった。

スウェーデンでは友人の家を訪ねた

だけど、自分の経験(インプット)を広げないと、アウトプットの質は高まらない。将来の仕事の単価を高めるためにも、そして自身のブランディングのためにも、今は無理してでも海外へ行くのを止めちゃダメだと自分に言い聞かせていた。

悩んだら弱気になるから、行きたい国があったら、先に飛行機のチケットを取ってしまい、後に引き戻せないようにした。「もう行くしかない」という状況に自分を追い込んだ。

「ここまできたら、もう貯金がなくなるまで行こう」

お金が尽きるのが先か、大きな仕事を取れるのが先か。賭けだった。

働き方の価値観の違いやキャッシュレス社会を知りたくてスウェーデンへ行き、最先端テクノロジーにふれたくて中国の深センへ行った。そして原稿を書き続けた。

地元情報紙でのコラム
ロシアでは日本のテレビにも映った

でも、ロシアW杯の旅から帰ってきたときに、ついにお金がなくなった。W杯で着ていたユニフォームや記念グッズを泣く泣くメルカリで売ったり、UberEatsの配達員をやってみたり、できることはなんでもやって、食いつないでいた。

UberEatsの配達員もやっていた

ときどき友達に会うと、「ゲッソリしてるけど大丈夫? ちゃんと食べてる?」と心配されて、「大丈夫だよ」と強がって、あとでひとりで泣いた。自分が思い描いていた理想と現実があまりにもかけ離れていて、悲しくなった。

ついに通帳の貯金残高が1万5000円になった。

「よくここまで頑張ったよ」

限界まで攻めた自分を、逆に誇らしく思った。

「やるだけやったんだから、もうサラリーマンに戻ろうか」

そのときにはもう変なプライドもなく、自然に思うことができた。清々しい諦めというのだろうか。ある日、そんな感情をポロッとTwitterで吐露したら、ソフトバンク法人マーケティング本部の新規事業戦略室から突然お声がかかった。すぐにミーティングがあり、長期間の業務委託契約が結ばれた。ソフトバンクが、プロライターとしてぼくを起用してくれたのだ。気付けばビジネスメディアの副編集長に就任していた。

まったく、人生はおもしろい!

8月以降、収入は一気に安定したし、チームも優秀な方ばかりで、まさに望んでいた「成長できる環境」に身を置けるようになった。ソフトバンク本社に自分の席が用意され、社員食堂なども含め自由に使えるようになった。感謝しかない。

ソフトバンク時代のチームのみんな

ぼくは大学4年生の最後の春休み、11日間に及ぶ「四国・無一文の旅」を行った。

そのとき、ぼくのことをTwitterで見つけ、おもしろがって旅を追いかけてくれていたのが、ぼくをソフトバンクに誘ってくれた方だった。当時ソフトバンク社長室で孫正義さんの側近として働いていた彼は、旅行会社で働く間もたびたびぼくの将来を気にかけてくださっていた。そのような背景があったので、なおさら人生のおもしろさを感じたのだった。

「副業も大歓迎、むしろドンドン活躍しなさい」と背中を押してくれ、2018年の後半は一気に仕事の幅が広がった。収入は会社員時代の3倍近くになった。

執筆を担当したクラファンで800万円を集め、賞を受賞

当時はビジネスメディアの編集者だったので、インプットのためNewsPicksの記事を毎日チェックしていた。自由にコメントを書いていたら、なんと10月にNewsPicksの週間ランキングで総合1位になることができた。

堀江貴文さんをも抜いて1位に

だけど、1位になるうえで役立ったのは、無理をしてでも行った海外経験で得た、「生きた知識」だった。「記事ではこう書かれているけど、実際にスウェーデンに行ってみたらこうだった」など、記事に関連付けて自身の体験をもとにコメントしたところ、徐々に評価を得られるようになった。起こした行動は、決して無駄じゃなかったのだ。

NewsPicksで知名度を上げたことがきっかけで、ユニクロ(ファーストリテイリング)からお仕事をいただけた。それがのちに、「モデル」の仕事を始めるきっかけになるとは、このときはまだ知る由もなかった。

ユニクロのオウンドメディアにて

2018年は、ジェットコースターのような一年だった。辛かった時期にもギリギリのところを攻めてきたからこそ、最後の最後に、賭けに勝つことができた。

年末には星野リゾートの星野社長と出会い、直接お仕事をいただく

もちろんフリーランスは先が読めないので、翌年にはまた別のドン底を経験するかもしれない。でもさすがにもう、あれほどの辛いことはないだろう。

そう思っていた。しかし人生は甘くなかった。翌2019年、ぼくは「お金がない」ことよりも遥かに辛い状況に追い込まれるのだった。やれやれ。

(つづく)

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