世界1周中(1年間22ヶ国38都市)にフト文章書き始めたらできた処女小説「ヨートピア」6/44
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体の細胞を作っている粒子が分裂している。耳から溶け始めた。溶けるというより、粉末になってサラサラと風にのって空気に溶けている。今まで耳があったことが嘘のようにサラサラと跡形もなくなくなった。次は手の指先からだ。小指、薬指、中指、人差し指、親指の順番にサラサラとなくなっていく。不思議と気持ち良くも感じるほどにサラサラと綺麗なパウダーになって空気の中に溶けてはいつの間にか消えている。腕、頭、胴体、足、の順番にあっという間にサラサラと消えてしまった。今まで信じていた自分の体がこれほどまでに綺麗に空気中に溶けてなくなると、信じていたものなんてもろいもんだと思った。粒子になったとしてもそこに俺が居る気がする。風にのった一番粒子君はもうかなり遠くまで行ってしまった。以外と楽しそうだ。今まで見れない視線で風にのって世界を感じている。鳥たちはわたしたちに気づいて声をかけてくれる。よう新入り、楽しんでね。海を渡るわたし、風にのれず海に溶けるわたし、上昇気流をつかみ、宇宙まで流れるわたし、雲にひっつくわたし、大地に溶けるわたし、地球の反対側に到着するわたし、月に到着するわたし、花に受粉するわたし、サメと一緒に泳ぐわたし、いろんなわたしがでてきた。世界がわたしの体になったかのようだ。世界がひとつになったかのようにこの世界のありとあらゆる動きを同時に感じる。あちこちのわたしがあちこちで動いている。体だった時はそれらが全て集合して完璧なバランスで調和をとりひとつになっていたかと思うとそれもそれでスゴイことだなと今更思った。もう遅い、こうなってしまったらこれでの楽しい暮らし方を模索しなくてはならない。体だった時はひとつのことしかできなかったが、これなら時空を超えて同時にいろんなことができるという所がわたしたちの強みだ。学びが早くなる。粒子になったことで人間のサイズでは入れなかった、花粉の世界、大地の世界、海の原子の世界、などに入り込むことができるのは面白い。最小になって世界を見てみると世界はこれほどに美しかったのかと気づいた。人間の体感では限界があることを初めて知った。実際に見える景色は変わらないけど頭を使って解像度を上げて詳細を想像してみることは可能だが、実際に見ることはできない。それをわたしたちはできている。そこには可能性がある。わたしたちはそれをスケッチした。スケッチといってもわたしの表面に彫るだけだ。tatooのようにわたしの表面に刻み込むのだ。痛くはないがかゆい。それでも彫る価値があると思ったから彫っている。そのスケッチを面白いと思ってくれた海の粒子ちゃんが、ぜひ海底のサンゴでできた集合住宅を見て欲しいということで案内してくれた。海の粒子ちゃんたちが一斉に動き出すと、瞬く間に目の前に急に竜巻が現れて、それにのってわたしはどんどん海底に運ばれていった。竜巻エレベーターであっという間に海底に到着、そこには筆舌し難い美しいサンゴ礁の世界が広がっていた。サンゴがキラキラと光っている。そこに住む魚たちもみんな艶が素晴らしく、光っている。その中に入る。流れは止まらない。子供たちが遊んでいる。子供はなにかを作っている。ヒモで遊んでいる。ヒモというより釣り具の糸だった。先端にあるはずのハリが神棚のように大事に展示されていた。それにしてもサンゴ礁の世界は寒かった。寒さで皮膚が裂けそうになっていた。皮膚なんてないが、表面が寒さでピリピリミシミシと裂けていく。痛みはない。どんどん裂けていって、気づいたら表面がリニューアルされてしまった。古い表面は剥がれおちて、ヒラヒラと宙に舞ってサンゴ礁にピタッとくっついた。子供たちがそれを見るやいなやサンゴにくっついた表面にキスをした。するとそこからモコモコと新たなサンゴが生まれてきた。「あなたはここで暮らしているの?」「そうだよ。楽しいよ。一緒に暮らさない?」「暮らしたいけどわたしとあなたは違うから暮らせないよ」「そんなことないよ、同じだよ。ちょっと見かけが違うだけだよ。僕も表面の皮膚がはがれてこうなったんだ。剥がれるとどうなるかは自分次第。カエル、魚、クジラ、人間、ミジンコ、微生物、みんないろんな姿形に変形していくんだよ。君はその容姿になったけど、元は僕たち同じだよ」「そうなんだ。でも最近僕は自分の容姿に飽きてきたというかイヤになってきてるんだ。君みたいになりたかったよ」「自分で薦んでその容姿になっといてイヤになるっていうのはまた面白いね。そんなもんなのかね、無い物ねだりって言葉?かな?」そんな会話が水の流れにのってやってきた。おそらく遊んでいた子供が流したんだろう。この海底の世界では、水の流れが会話になっていた。水の動きが気流であり、風であった。それに言葉を乗せてわたしたちは会話をしていた。波を波に乗せて水が運んでいる。水はとまらない、自由に動き流れ続けている。だから間違った風にのせると、別の所に流れ着いてしまう可能性もあるが、わたしたちはそれも楽しんでいた。「誰だよ、こんな会話してるの!クジラに聞かれたら大変だぞ!クジラ怒ったら大変なんだから」クジラには聞かれたくない会話を誰かがしていた様だ。クジラは確かに大きい故に水の風を操る力を持っている。海底では地上のようにすべてを照らす光がないため、自分が光るしかない。自分で光を作り、闇を照らし、生きている。しかしわたしたちは光がなくても、水の動きでみんながどこにいるのかすべてわかる。水と同化しているから、水が体であり、全体なのだ。あそこに魚の大群が居る。あっちにクジラが居る。こっちは冷えている。など水が体となると常に動いているために忙しいが、その分光を必要としなくて済む。つまり光は自分のためには必要ないのだが、他から良く見せるため、目が必要なもののために光っているわけだった。そこでふと人間的思考が流れてきた。人間は安心安全のために自分の生命維持のために必要に応じて外界に適応して変形するものだが、ここは違う。水という体を有することで絶対的な安心安全を手にしているからこそ、自分の生命維持のためというものはなくなり、自分以外のため周りのため他のために自分が変形しているのだ。そしてそれは結果自分のためになっている。時間もない、空間もない。というより空間そのものがすべて自分という認識となっている海底世界では、人間世界とは逆の世界がここにあることに気づかされた。サンゴも気ママだ。水の流れに逆らわないようにのびのびむくむくと大きくなっている。表面はキラキラする小さなダイヤモンドのような石のような泡のようなものを無数に発信している。これは子供だという。大変な子供たちだなーと感情移入してしまった。子供達はあっという間に流れにのってはるか彼方へ消えていってしまった。なんとも逞しい子供たちである。わたしもこの中で暮らすことにした。まずは水に流されるところから始めた。あっちにいったり、こっちにつれていかれたり、元いた場所に戻ってきたり、と水を乗りこなすのにも練習が必要だと知った。水の流れが体の一部のように感じることができるようになってくると思うように自在に流れにのることができるようになるという。いつになることやら。。
水の中でそんな思いを馳せていたら、どこからともなく水の流れにのって大地に溶け込むわたしのわたしが飛び込んできた。
大地はいつもカーニバルが催されているように盛り上がっていた。あちこちで虫やら微生物やらが交差し、みんな動いて活動している。餌を探すため、家に帰るため、新しい家を探すため、人間から避難するため、理由はいろいろあるようだが、とにかくめまぐるしく世界が回っている。大地ももこもこ動いている。大地の中にいるサナギ、幼虫、木の根、などがモリモリ動いているのが原因だろうが、四方八方めまぐるしい。わたしは座りやすそうな石の上に到着した。どうしたもんかと考えていたら、座っている石が「おう新入り!よく来たな、いらっしゃい!俺が案内しようか?」と話しかけてきた。これもなにかのご縁だろうと思うことにしてお願いすることに。石のいっしーはわたしを乗せてどんどんカーニバルの中をわけて進んでいく。普通は石が歩けて動けて口をきけることにびっくりするのだろうが、この景色を見るとそれすらも当たり前のように思えてくる。視界に入る景色全てが動いているからだろう。むしろ動かないものがある方が不思議に思えるくらいだ。石はよーく見ると、芋虫のように大地と触れている部分だけ細かく石の粒子たちを揺らし波うつことで前に進んでいる。見ていて惚れ惚れするほど器用な動きだ。いっしーと通り過ぎる周りの虫、草、鳥、などは「おーいっしー!久しぶりだなー。最近あんまりそっち方面行ってなかったからどうしてるかと思ってたけど、変わらず元気そうでなにより!今日はどこにいくんだ?お友達のせてんのか、じゃあ俺たちの草の世界を案内してあげるよ。おーいみんなー草の世界を見せてあげるよー」その合図の直後に、風がやってきた。風に合わせて周りの草たちが一斉に踊り始めた。わさわさ、さらさら、なんて言えばいいのか、、とにかく見たことのない美しさだった。目の前の世界すべてが、美しいしなやかさで風にのって揺れてなびいて動いている。それがずっと奥まで続いている。わたしといっしーの通る道がぐわーっと開いていく。わたしは呆気にとられてしまっていた。気が付いたら涙が流れていた。草たちは自分の美しさを知っていてそれを見せてくれたところが少し憎らしく思ったが、これは見せたくなるのも頷ける圧倒的な美しさだった。草たちが作ってくれた目の前の一本道を進むとその先には大きな木が目の前に現れた。いっしーは「俺が一緒に行けるのはここまでだ、この木を登るとまた面白いものが観れるから見てくるといいさ」と言って、わたしを降ろしてくれた。わたしはお礼を言って、木に登ろうとしたが、どうやって登ろう。。しばらく考え込んでいると、右下の方に穴があった。中を覗いてみると、水が勢い良く流れていた。どうやらこれは木が水を吸い上げている脈のようだった。これにのれば一気にてっぺんまで行けると考えたわたしは、水の中に入った。すごい勢いで流される。今自分がどこに居るのかわからなくなった。変な感覚だった。勢い良く流されているのに、この中では方角がなく、無重力空間にいるかのような、ひろーい空間の中にいるかのような、宇宙の中に飛ばされたかのような感覚になった。すると目の前にぼんやりとした光の玉がでてきた。「いらっしゃい。話はみんなから聞いているよ。楽しんでいってね」と語りかけてきた。どうやらこの木の精霊のようだ。よろしくお願いします、と言うと、さーっと目の前の真っ暗な視界が開けて明るくなった。わたしは木の幹の先端に居た。上下を見渡すとさっき居た場所よりは上に居て、まだまだ上まで行けそうだ。ここは中間休憩ポイントだろうと思って、周りを再度見渡すと、網の目のように木の脈が四方八方に張り巡られているのに驚いた。その全てがどくどくと動いている。生きている。なにか切なくなった。それは人間の時の記憶が蘇ったからだった。人間の時は木を蹴ったり、切り刻んだりして遊んでいた記憶が蘇り、わたしはこの繊細な脈をことごとく壊していたのかと思うとやりきれなくなった。そしてこのあまりにも繊細な脈の儚さに切なさを感じたのである。しかし風との相性はよかった。強風が吹いても脈は上手に揺れるだけ。網目状だから風も上手に間をすり抜けて掃除をしてくれているようだ。すると突然ドスドスドスとものすごい音と振動が世界を震撼した。なんだ!?と思って周りを見渡したら、下からものすごい勢いでゴジラが登ってきていた。ゴジラ!?ではなくリスだった。わたしめがけて突進してくる。少しビクビクしていたが、リスは優しい声と笑顔で、「ハロー!初めてのわたしだね。」と言って、わたしを超えて上の方に登って行った。よくみると食料を探しているようだった。リスは人間のような1日3回の食事などの決まった食生活やリズムなどはない。いつも食事の時間だから、見つけてはそこがレストランになる。木の上でもレストラン。足元が不安定な場所でもレストランだ。世界全てがレストランである。いいなーと思いながらもわたしは儚い木の脈が心配になった。あれだけの巨体がドスドスと脈の上を跳ねたら傷つくにちがいないと思って見渡したが、どこにも損傷はなかった。見た目の繊細さとは裏腹に強いんだなと思った。強さの理由は柔らかさだった。リスの重みさえクッションにできる柔らかさ、しなやかさ、柔軟さがあったのだ。強くあろうとするものはそれが故に囚われて硬くなるが、本当に強いものはしなやかで囚われない。見た目ではない。そんなことを木の脈を見て思った。そしてわたしは再び、脈の中の水に入った。相変わらず早い。直球エレベーターのような、それのぐにゃぐにゃ版。毎度自分がどこに居るのかわからなくなるが、気づいたら目の前がパーっと開けていて到着しているのである。今回はいよいよてっぺんに到着した。てっぺんと言っても先ほどと見る景色の高さが変わっただけで、相変わらず周りには木の脈が張り巡られいるし特に変わった様子はない。変わったことといえば、鳥である。鳥との距離が近くなった。空を飛んでいる鳥、木に止まっている鳥、みんなと目が合い、その度に挨拶を交わす。鳥が羨ましく見えた。鳥さんは自由に空を飛べていいね、空全部が家って最高でしょ!?と言うと、「いいだけではないさ、それだけ危険もあるしね、結局あなたと同じだよ。おれたちも同じように飛べないものたちのこことを羨ましいなと思うものさ。でもそれで生まれてきたから受け入れる時がくる。それでもやっぱりいいなーっと思ったりして、その間でみんな揺れながら生きてるんだよ」太陽をじっと眺めながら、なかなか大人の意見をさらっとこの鳥は言った。そして空に飛んで行った。鳥はロマンチックだった。その鳥の背中が語っていた。太陽と空の重さに耐えるその背中は光っていた。
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