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「踊る」ことの重要性

なぜ僕たちは「舞う」ことをやめないのだろう? 狩りに成功した時、魔除けの儀式の時、豊作を願う時など、古代から色々な場面で、ことある毎に僕たちは舞ってきた。 現代でもディスコやコンサートに出向いたり、カラオケで熱唱したりと、舞うことをやめられない。

「狂いたいから」ではないだろうか。己の中に秘めた矛盾に満ちたカオス。同じ大地の上で共同生活をする者同士、それをそのまま表現してしまっては、秩序と平穏を保てないので、御法度である。全てが合理化した現代社会の中に於いても、狂うなんてことはまさに狂気の沙汰だ(己のカオスを無視し、システム化された現代社会に順応し狂っていないかのように振る舞うことこそ、僕には狂っている様に見えるが)。
そんな現実をすっ飛ばして、魂の奥底でマグマのように蠢いているカオスを発散させなくては、精神のバランスが崩れてしまう。そこで、発散させる表現方法と表現場所が問題になってくる。 音楽と共に「舞うこと」は、楽しく狂える方法で、音楽があるところが狂える場所になるので、僕たちにとって都合が良いからやめられないのではないかと僕は思う。

日本神話でも、舞うことの重要性は、芸術・芸能の神様「天宇受売命(あまのうずめのみこと)」の「神楽舞」で伺うことができる。

〜天宇受売命の物語〜

世界を照らす太陽神である天照大神が、弟の悪行に困り果て、岩陰の洞窟(天岩戸)に隠れてしまったので世界は闇に包まれてしまいました。天照大神をなんとか外に連れ出す方法を神様たちは考えます。「そうだ、天照大神も楽しそう〜と羨むようなお祭りを開けば、興味を持って岩陰から出てくるだろう」
そこで天宇受売命(あまのうずめのみこと)は、みんなの前で狂ったように舞いました。会場に居る神様たちは大爆笑し最高に盛り上がりました。神様たちの歓声と笑い声は、洞窟に隠れる天照大神に届きます。「私が居ないのになんで盛り上がっているのかしら?」と天照大神は気になって天岩戸から出てきました。その隙に天照大神を外に引っ張り出して、世界は再び光に包まれたのでした。
世界の光を復興させるキッカケとつくった「神楽舞(神様が楽しむ舞い)」を披露した天宇受売命は、それ以降、芸術・芸能の神様となりました。

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日本社会で忙しく戦っている友人たちこそ、「舞う」ことが必要だと思い、先月東京でゲスト40人、3時間限定の「舞祭」を開催した。
最後には、みんな笑顔で手を繋ぎ、ひとつの輪になって舞えたことは最高の喜びだった。その会場に飾るべく描いた絵が今回の絵だ。

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色とりどりのたくさんのイノチが、「舞」に導かれ、集まり、踊りだし、祭が始まる様を表現している。
身体中の細胞を震え上がらせ、生きている手応えを感じさせ、イノチを楽しく喜ばせてくれる、古えより僕たちの中に脈々と受け継がれている「舞」のリズム。
あなたはどこでどんな風に舞うのだろう。

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