シュルレアリスムの炎

芸術に興味のない人にとっては、どうでもよいことなのかもしれません。芸術に精通している人からしたら、的はずれなのかもしれません。それでも私は、シュルレアリスムという芸術との出会いについて、記しておきます。
文学への憧れと熱意で、小説を書いてみようともがいていたころの話です。いざ小説を書くと言っても、どんなテーマや内容で書けばいいのだろうかと相当悩んだ経験があって、困り果てて筆が進まなくなったとき、なあんにも詳しくなんかないけれど、芸術についてなにかしら取り入れながら書いてみようと思い立ちました。とりわけ美術に関心があったので、インスピレーションが湧くことを期待して、美術展に足を運んだりしました。
とはいえ、そう事がうまく運ぶものでもなくて、芸術というのは私のような低俗な者には到底理解できぬ、崇高な領域なのだと、何度も挫け、半ばあきらめていました。そのような日々のなかで、シュルレアリスムとの出会いは訪れたのです。
シュルレアリスムとはなんぞや?
ぐいぐいと魅かれ触れたことで、私のなかのなにかが刺激されたような、そんな感覚がありました。

美術展に足を運んだと言っても、数えるほどしか鑑賞できなかったし、結局、どうにもならぬへたな小説しか書けませんでした。そんな私ではあるけれど、今も記憶に刻まれているのが、モネの大作《睡蓮の池、夕暮れ》の展示が目玉であるチューリヒ美術館展に行ったときの感激です。慣れない美術館の緊張感とともに、言い表せないほどの魅力と驚嘆に打たれ、芸術の一端に触れた喜びの瞬間が詰まった記憶。モンドリアンの抽象画、シャガールのブルー、ジャコメッティの彫刻etc……。
なかでも一番興味をそそられたのが、シュルレアリスムの作品。タンギー、ダリ、そして今となっては敬愛するに至ったマグリット。直に作品に触れたことで、ますます興味が増してゆくシュルレアリスム。知りたいという欲求は、いくつになっても大切にしたい感覚です。なぜなら、それが生きるための活力となることを、身をもって体験したからです。

とっつきにくい書ではあるものの、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』について言及しておきます。シュルレアリスムとはなんであるかがつらつらと回りくどく説明されており、正直、仰け反りたくなるほど難解に感じられました。殊に『溶ける魚』については、これはいったいなんだ? と首を捻りたくなるほど、読むのに苦労した覚えがあります。にもかかわらず、私は妖しい魅力に取り憑かれていました。読み終えたとき、まるで訓示を与えられたかのような心地になりました。シュルレアリスム宣言における次の一節が、私を貫いていたからです。

きっぱりいいきろう、不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない。

『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』
アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳
岩波文庫 より

私のなかのなにかが覆っていました。よくよく考えてみると、世界は不可思議なことだらけです。疑えばキリがないほどに。不可思議を敬遠するのではなく、美しいと言い切る。この潔さに、なぜか感嘆しました。言い換えれば、不可思議の肯定、どんな自由も許されているかのような解放感と安心感。もやもやとどこか窮屈さを感じていた私の心が、ほぐされたのは事実です。薦めたい書でもなんでもないのですが、私の偏愛書となってしまっていることは否めません。

シュルレアリスムの衝撃が、奇しくも、私の創作意欲に火を点けてくれました。背中を押してくれました。その火は成長し、やがて炎となって燃え盛りました。炎は消えかけながらも、今もしずかに燃えつづけています。
私はただ、感謝しているのです。たとえシュルレアリスムに愛想が尽きたとしても、あのころの興奮と熱中を覚えている限り、感謝が絶えることはないでしょう。芸術に生かされたというと大袈裟かもしれませんが、私のような世間ズレした人間にとっては、おおきな救いでもあったからです。
それゆえに、私は心のどこかに、芸術がありつづけられる隙間を確保するようにしています。日々の暮らしで磨り減ってしまう精神、放っておけば悲鳴を上げそうになることもあるから、芸術を失わない心でいようと、常に思いながら過ごしています。
今は明確に芸術を意識した暮らしをしてゆきたいと考えていますが、芸術のげの字も知らない子ども時分から、当たり前のように芸術に触れていました。消費するばかりだったとはいえ、漫画、映画、音楽などに没頭している時間はなによりも心地よい幸せな時間でした。世にごまんと溢れる創作物から、何かしら感受することで、惰弱な我が身をなんとか保ち得ていたようにも思います。

私は芸術のなかでも、文芸に心を向ける比重が大きくなりました。特に詩は、ことばの芸術と捉えている部分があるので、やりがいを感じています。単純であり、複雑であり、奥が深い。そうして嫌になるくらい、夢中にさせられてしまうのです。潜在している不可思議、ひいては生きていることの不可思議を、あらゆるものを通じて掬いあげる。それが詩を書くということにもつながっている気がします。
図らずも、生み出す側に立っています。私のこの弱い頭と心では、底が知れています。それでも、人生を賭けるほどの価値を感じてしまっているのです。徒労に終わるとしても、私は結句、恩返ししたいのだと思います。苦しみ絶えぬこの世で、まだ生きたいと思わせてくれた芸術のために。幸か不幸か、つよく胸に刻まれてしまったから、向き合っています。書いています。できるかぎり、魂の底から炎を燃やし、創作をつづけてゆきたいと思います。
あわよくば、この身が干からびるまで——。


※駆け出し探求者の痴れ言

お読みいただきありがとうございました。なにか感じていただければ幸いです。