乏少な感性に愕然としても

美術が理解できるようになりたい。そのためには実物を見なきゃだめでしょ、と思い立って、いくつかの美術展にせっせと足を運んでいた時期があった。鑑賞後は、殊勝に感想をメモなんかしたりして。

それなのに、いまだに美術について語る口など少しも持てていない。それでもなんか言え、と仰るなら、とにかく難しいけど惹かれて止まない面白さがある、と、こう薄っぺらな感じ方を述べるくらいが関の山である。

無駄に勢い込んでほいほい出かけているうちに、ブレずに好きでいられる画家ができたのは嬉しかったけれど、それもほんの一握り。
ピカソの奇抜な裸婦、ゴッホの厳つい自画像、モネの大作である睡蓮、いくら腕組みして仔細らしく眺めてみたところで、それほど感応することができなかった。(ゴッホに関しては耳切り事件を知ってから、作品より彼の人生のほうが気になっている)

世に溢れる芸術作品に対して流布している「素晴らしい」に置いていかれたくないばかりに、無理に合わせようとして焦り、元々乏しい感性がすぐに疲弊してしまうということが少なからずあった。それは美術に限ったことではないけれど。そのたびに愕然とし、あまりにも狭量すぎでしょ、感性ってもっと豊かにできないものなのか?   とよく嘆いていた。

いや、無理するなよ、と言われて諦めてしまっては元も子もないので、どうにか食らいついていきたいのであるが、今になって思うのは、一般的にひゃあすごいと言われているものに対して、自分の感じ方がズレていようとも、それほど気に病む必要はないのかなと。

それよりも、乏しい感性のなかで感じる、美しいものは美しい、好きなものは好き、美しくても嫌い、美しくなくても好き、そんな、自然と湧き上がってくる自分の素直な感情からズレてしまうことのほうが残念に思えるので、そこを突き詰めていくことも大事だよな、とそんなふうに考える今日この頃。

無論これからも背伸びはやめないし感性を磨いて育てることも忘れるつもりはないけれど。今は無理だけど、機会があればまた美術展に足を運んでみたい。
五月。憂鬱になりがち。そんなのはべつに、感じてやる必要はないよね。


※駆け出し探求者の痴れ言

お読みいただきありがとうございました。なにか感じていただければ幸いです。