記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画『エンパイア・オブ・ライト』について

四月は残酷な月

大晦日の朝、映写技師のノーマン(トビー・ジョーンズ)が休憩室でクロスワードパズルを解いています。

「ヨコの9、5文字。『荒地』の最初の単語は?」

横にいたヒラリー(オリビア・コールマン)はほとんど即座に正しい単語をつぶやきます。T・S・エリオットの『荒地』のよく知られた冒頭の一節は次のとおりです。

APRIL is the cruellest month
四月は極めて残酷な月だ

T・S・エリオット『荒地』

T・S・エリオット自身の注釈によれば、『荒地』はJ・G・フレーザー『金枝篇』のアドニス、アッティス、オシリスを扱った章から詩想を得て書かれたそうです。これらの神々は古代オリエントにおいて、毎年死んではまた蘇ることを繰り返す植物が人格化され、死から蘇る神として崇拝されていました。なかでもアドニス神は古代オリエントからギリシャへと伝えられ、ギリシャ神話の一部に組み込まれて、現代の私たちにとってもなじみの深いものとなっています。

神話によれば、愛欲の女神アプロディテは、幼いアドニスを箱に隠して、冥界の女王ペルセポネーに託しました。しかしペルセポネーは幼いアドニスを一目見るやその美しさの虜となり、アプロディテに返すのを拒みます。アプロディテとペルセポネーのあいだの諍いは、アドニスが一年の半分を冥界のペルセポネー、残りの半分を天上界のアプロディテととともに暮らすようにというゼウスの裁定でようやく決着します。

この挿話が、死と再生を繰り返すアドニス神話のギリシャ版であることはいうまでもありません。

T・S・エリオットの『荒地』は難解な作品ですが、その主題の中心に上記のような《死と再生》の物語が含まれていることは間違いありません。そして映画『エンパイア・オブ・ライト』もまた、《死と再生》を中心的な主題とする作品であることを、いくつかの場面を引きながら以下に示してみたいと思います。

冥界に囚われたペルセポネー

ヒラリーが働くエンパイア劇場は、豪華なアールデコの内装がほどこされた格式ある劇場です。往時には賑わっていたであろう面影がしのばれますが、1980年の現在では訪れる客もまばらで、流行っている様子はありません。4つあるスクリーンも現在は2つしか稼働しておらず、階上のホールは鳩の寝床と化している有様です。こうした惨状はエンパイア劇場単独の問題というより、おそらく当時のイギリス映画産業の衰退と関連しているのでしょう。季節は冬。死の季節です。閑散とした古い劇場は冥府(エンパイア・オブ・ダークネス)を連想させます。

映画館とは人々が闇の中で光を見つめる施設です。ヒラリーは従業員として劇場の闇に奉仕しつつ、支配人のエリス(コリン・ファース)から性的に搾取されています。そんな彼女はまさに、冥界の王ハーデースにさらわれ、冥府で暮らすことを強いられたペルセポネーです。彼女に処方された炭酸リチウムの錠剤は、ペルセポネーが冥府で口にしたざくろの粒にほかなりません。彼女は冥界で収穫された食物を口にしたため、地上に戻れなくなってしまったのです。

ヒラリーが大晦日の夜に口にするのがテニスンの「響きわたれ、荒ぶる鐘よ」ですが、死と再生の主題はこの詩のなかにも現れます。

The year is dying in the night
Ring out, wild bells, and let him die
かの年は夜のうちに逝こうとしている
響きわたれ、荒ぶる鐘よ、その死を見送ろう

テニスン「Ring out, wild bells」

冥府からの脱出を願うヒラリーの心情がうかがわれます。

スティーブン(マイケル・ウォード)との出会いは一時彼女を癒しますが、錠剤の服用をやめた彼女の精神はかえって不安定になってしまいます。彼女が「炎のランナー」のプレミア上映で観客に投げつけるオーデン「死の谺(こだま)」は、死にとりつかれた彼女の心情の現れであり、再生の希望は見出せません。

Dance till the stars come down from the rafters
Dance, dance, dance till you drop
踊れ、垂木から星がこぼれ落ちるまで
踊れ、踊れ、死ぬまで踊れ

W・H・オーデン「死の谺(こだま)」

アドニスの旅立ち

スティーブンは、ヒラリーが囚われている冥府に突然やってきた美しい若者です。ペルセポネーがアドニスに魅了されたように、ヒラリーはたちまちスティーブンに魅了されます。

ギリシャ神話のペルセポネーはもともと春の女神であり、冬の季節を地下の冥界で暮らし、春になると植物を芽吹かせます。アドニスが死と再生を繰り返す植物神であることは前に述べましたが、ペルセポネーは冬の間アドニスを保護し育み、やがて地上に送り出す役目を負ってます。ヒラリーも同じように、スティーブンを保護し育み、やがて冥府から送り出すことになります。

一方、スティーブンはエンパイア劇場での半年あまりの間に、ヒラリーとの恋と別れを経験し、差別と暴力に傷つき、立ち直り、やがて新しい人生のステージへと旅立っていきます。老人の仕草をまねて笑っていた幼さは消え、傷ついた人への思いやりを学びます。旅立ちの夕食の席で、新しいガールフレンドのルビーと母親は感慨をこめて語り合います。

ル「彼はずいぶん以前と変わったわ」
母「ほんのちょっと人生を生きたのね、きっと」

神話のアドニスはイノシシに突き殺され、流れ出た血からアネモネが生じますが、この映画のスティーブンは暴行から生還します。ヒラリーは彼にフィリップ・ラーキンの詩集を贈ります。ヒラリーの声で朗読される「樹」という詩にも、死と再生の主題が含まれています。

Last year is dead, they seem to say
Begin afresh, afresh, afresh
去年はもう逝った、樹はそう言っているように聴こえる
さあ生まれ変わろう、生まれ変わろう、生まれ変わろう

ラーキン「樹」

植物神であるアドニスに捧げるのに、これほどふさわしい詩はないでしょう。

闇の中の光

一方、最愛のアドニスを失ったペルセポネー=ヒラリーは、これからも冥府に留まらざるをえません。そんな彼女にとって救いとなったのが映画でした。フィルムが映し出す1秒間に24コマの光の連続のあいだには、我々が認識できない暗闇が含まれている。映画とはいわば、絶え間なく死と再生を繰り返す光の連続です。

エンパイア劇場の壁には、シェイクスピアから次の引用が飾られていました。

Find where light in darkness lies.
暗闇の中に光を見い出せ

冥府(エンパイア・オブ・ダークネス)は光の帝国(エンパイア・オブ・ライト)へと生まれ変わります。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?