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映画『TAR/ター』について

権力への欲望は強さではなく、弱さに根差している。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

リディアとリンダ

トークショーのホストを務めるアダム・ゴプニク(本人)は、リディア・ター(ケイト・ブランシェット)の華々しい経歴を長々と紹介した後で、「何か言い漏らした事柄がありましたか」と彼女に尋ねる。

紹介された彼女の経歴には、たしかにいくつもの漏れがある。たとえば、彼女の本名がリンダ・タルであるということ。ニューヨークのスタテン・アイランド出身であること。子供のころ出場した音楽の大会でメダルをもらったこと。レナード・バーンスタインの音楽番組「ヤング・ピープル・コンサート」をみて感動し、指揮者を志したこと(彼女がバーンスタインを師と呼ぶのはこのことを指す)。

あまり裕福な家庭の出身ではなく、子供時代には音楽教育もろくに受けていないはずの彼女が、ベルリン・フィルの首席指揮者という音楽界の頂点に登りつめたことこそ、本来なら最も誇るべき経歴であるはずだ。ところが、彼女はリンダ・タルとしての自分の出自を隠し、リディア・ターというなかば架空の人物を造形するのである。なぜだろうか。

リディアの周囲に、彼女と同じような出自の人物が見当たらないことがひとつのヒントかも知れない。クラシック音楽の演奏家は幼少期から英才教育を受けている者が多く、経済的にも文化的にも恵まれていなければ成功は難しい。リディアのパートナーであるシャロンや、実業家でもあるエリオット・カプランはもちろん、後進のオルガ(叔父は指揮者のユーリ・シモノフ)も自殺したクリスタ(両親は銀行家)も、彼女よりは上位の社会階層の出身だ(おそらくフランチェスカだけは例外)。そんな彼/彼女たちをしたがえるカリスマを得るために、彼女にはリディア・ターという架空のキャラクターが必要だったのではないか。

それでも、とくにリディアが独りでいるときなどには、リンダが顔をのぞかせる。頻出する鏡のシーンでは、リディアとリンダが鏡をはさんで見つめ合っている。

変節

リディアは、紹介された自分の経歴について「多才であることはあまり誉められたことではありません」と、自身のこれまでの経歴を否定するかのような感想を述べる。たしかに、ペルーでの民族音楽の調査もEGOT受賞歴も、クラシックの指揮者としての評価には必ずしもつながらない。EGOTについて言えば、もともと音楽の賞であるグラミー賞は別として、エミー賞(テレビ)、オスカー(映画)、トニー賞(演劇)はいずれもエンターテインメント業界の賞であり、「真面目な」芸術家であるクラシック音楽家が受賞するような賞ではないだろう。

上記のような見解は、「クラシック音楽は民族音楽やポピュラー音楽より高尚だ」という価値観を暗黙の前提にしているともいえる。この見解の当否はひとまず措く。しかしリディアはベルリン・フィルの首席指揮者に就任後、この見解に傾いたようにみえる。おそらく、彼女は変節したのだ。

たとえば、かつてはコンサートで現代作曲家を積極的にとりあげ、自身も作曲家であるはずの彼女が、ジュリアードの講義ではバッハを称揚し、現代音楽に傾倒する学生に「シュバイツァーに学べ」と諭す。シュバイツァーといえば、バッハ研究家として、またアフリカで医療に専心した「密林の聖者」として日本でもよく知られているが、じつは「アフリカ人はヨーロッパ人に知的に劣る」という人種的偏見を生涯持ち続けた人物でもあった。彼の博愛主義は、あくまでも優秀なヨーロッパ人が未開のアフリカ人を助けるという西洋中心主義、白人優位主義に基づくものであり、今日ではその業績に大きな疑問符がついている。

バッハの音楽を家父長制的性格のゆえに拒否するという学生の主張には留保が必要だが、リディアが学生に対して言ったのは、煎じ詰めれば「権威にしたがえ」ということにほかならない。言い換えるとそれは「私にしたがえ」というメッセージでもある。なぜなら、今やリディア自身が権威だからだ。

アバドのシャツ

彼女が権威を選んだことを象徴的に示すのが、床に散らばったレコードジャケットのシーンである。リディアと思われる素足が選びとったのは、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルが演奏するマーラーの交響曲第5番のジャケットだ。リディアは、アバドのレコードジャケットのデザインを、自分がこれからライブ録音する同じ曲のジャケットの参考にする。アバドが座席にかけた上着と、アバドが身に着けているシャツを誂え、鏡の前でアバドと同じポーズをとる。

クラウディオ・アバドはヘルベルト・フォン・カラヤンの後任として、1990年から2002年までベルリン・フィルの首席指揮者を務めた実在の指揮者である(アバドの後任はサイモン・ラトル。映画ではアンドリス・デイヴィスという架空の人物)。カラヤンというカリスマ的な大指揮者が退いた後、ベルリン・フィルは後任の指揮者を楽団員による投票で選出する制度を導入した。アバドはこの方式によって選出された最初の首席指揮者である。

首席指揮者を投票で選ぶベルリン・フィルの方式は、ローマ法王を決めるバチカンのコンクラーベになぞらえられる(コンクラーベについては映画内でも言及される)。つまり、ベルリン・フィルの首席指揮者とは、音楽界のローマ法王に匹敵する地位ということだ。リディアはアバドのレコードジャケットを模倣することで、自身をアバドと同一化しようとしたのではないだろうか。

権力はかくも巧妙に

アバドのシャツはローマ法王の法衣のように、リディア・ターの権威を象徴する。しかし、その権威は所詮借り物に過ぎないとも言える。彼女の現在の地位は、巧妙な駆け引きと自己演出によって築かれたものだからだ。我々は、たとえばリディアがオルガを独奏者に抜擢する一連の手際に、その一端をみることができる。

まず、マーラー5番のカップリング曲としてエルガーのチェロ協奏曲を提案する。選曲は指揮者の専断事項だが、リディアはあえて団員の意見を聴き、選曲が受け入れられると、次に「ソリストは団員の中から選びたい」と、自分が常に団員を優先していることを強調する。そうなると、ソリストの第一候補は当然首席チェロ奏者のゴーシャだ。「とはいえ」とリディアは続ける。「ゴーシャはマーラーの5番をまとめるので負担が大きい。だから、今回はオーディションでソリストを決めたらどうだろう」と。

ゴーシャはオーディションでは審査される側ではなく審査する立場だ。オーディションを受けるのはプライドが許さない。かといって、オーディションに反対すれば非民主的だという非難は免れない。こうしてゴーシャはソリスト候補から排除されてしまう(リディアの思惑に気づいたシャロンの目線がすごい)。

オーディションの結果は、リディアの予想どおり満場一致でオルガに決まるが、「オルガは正式な団員ではない」というクレームが入る。ここでのリディアの振る舞いも巧妙だ。リディアは「じゃあオルガは失格ね」と、彼女の選考にあっさり反対するのである。団員たちはあわてて話し合い、特例としてオルガを合格とする。結果として、リディアの反対にかかわらず団員によってオルガが選ばれたという形になっている。権力はかくも巧妙に民衆を支配する。

支配する者とされる者

しかし、リディア・ターの失墜もまた、みずからの策が原因といえる。リディアが副指揮者のセバスチャンに解任を告げると、セバスチャンは「フランチェスカを個人的な好意から自分の後任にしようとしている」とリディアを非難する。リディアは否定するが、フランチェスカを後任にすれば、世間もセバスチャンのように自分を非難するのではないかと不安になる(実際には、周囲もフランチェスカの実力は認めている)。

結局、リディアは別の候補者を副指揮者に選ぶ。しかし、フランチェスカがリディアの横暴に耐えてきたのは、ひとえに副指揮者になれるという希望があったからこそだ。フランチェスカはリディアを見限ってしまう。フランチェスカを敵にまわさなければ、リディアは首席指揮者の座に留まることができていたかも知れない。権力は、支配する者とされる者との共犯関係によって維持されるものだ。

権威からの解放

映画は、すべてを失ったリディアが、とあるアジアの国のイベントコンサートでゲーム音楽を指揮するところで幕を閉じる。この幕切れを、リディアの零落した姿と解釈すべきだろうか? 映画は、あえてそのような解釈を誘っているようにみえなくもない。

しかし「ベルリン・フィルの元首席指揮者が、アジアのオーケストラでゲーム音楽を指揮している」ことを零落とみることは、ベルリン・フィルをアジアのオーケストラより格上とみなし、マーラーをゲーム音楽より高尚な音楽とみなすことを暗黙の前提とする。このような前提は、シュバイツァーが西洋人をアフリカ人より優れた民族とみなすこととどれほどの違いがあるだろうか。このようなシュバイツァー的西洋中心主義こそ、リディア・ターというペルソナの基盤であり、彼女が身にまとっていた権威の拠り所であったはずだ。

かつて「指揮者は時間をコントロールする」と嘯いていたリディアは、ジャン=バティスト・リュリが指揮棒で自分の足を突いてしまったように、自らの権威に溺れてその地位を失った。いまや彼女はヘッドホンから聴こえるクリック音に合わせて指揮をする。彼女はクラシック音楽界からキャンセルされることで、ようやく権威から解放されたのである。

あるいはシピボ・コニボ族の歌い手のように、彼女はヘッドホンを通して精霊の声を聴いているのかも知れない。

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