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映画『ザ・ホエール』に関するノート

1. 隠された主題

ダーレン・アロノフスキー監督の映画『ザ・ホエール』は、街はずれの荒寥とした野原の停留所に一台のバスが停まり、ひとりの乗客を降ろす遠景のショットからはじまる。バスから降りた人物が何者なのか、画面から判然と見分けることはむずかしい。映画が終わったころには、この冒頭のシーン自体を忘れてしまう人も多いかも知れない。しかしじっくりと思い返してみると、この冒頭のシーンに、この映画の主題となる3つの物語が暗示されていたことに気づく。

ひとつ目は、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』だ。バスから降りた乗客は、『白鯨』の第2章で捕鯨船に乗り込むためにカーペット・バックを提げて捕鯨の町ニューベッドフォードにやってきた語り手イシュメールを連想させる。チャーリー(ブレンダン・フレイザー)が住む二階建てのアパートメントは、町に到着したイシュメールが最初の晩に投宿する「スパウター・イン」だ。イシュメールはこの宿で、無二の友人となるクイークェグと出会い、ベッドを共にする。

ふたつ目は、旧約聖書の『ヨナ書』。メルヴィルの『白鯨』第9章には、イシュメールとクイークェグが参列した教会の礼拝で、牧師がヨナ書について説教する場面がある。預言者ヨナは神から「ニネヴェへ赴き、この街が40日後に滅びることを伝えよ」と命じられるが、ヨナは敵国アッシリアの首都ニネヴェに行くのが嫌で、船に乗って逃亡を図る。しかし神は嵐を起こしてヨナの乗った船の進路を妨害し、海に放り出されたヨナは鯨に飲み込まれて三日後に陸に吐き出される。

映画の後半で明らかになるように、福音派教会の若い宣教師トーマス(タイ・シンプキンス)は、所属する教会から金を盗んで逃亡し、この街に流れついたのであり、神の命令から逃亡したヨナと重なる。冒頭のシーンでバスから降りた乗客をトーマスとみなすのはもっとも妥当な解釈だろう。トーマスはチャーリーのアパートで三日を過ごした後、赦されてもといた教会に帰っていく。

みっつ目の物語は、新約聖書のいわゆる「キリストの受難」である。この映画におけるチャーリーの月曜から金曜までの五日間は、イエス・キリストがエルサレムに到着してから磔刑に処されるまでの五日間になぞらえられている。冒頭のシーンが前日の日曜日だとすると、この日はパーム・サンデー(棕櫚の日曜日)と呼ばれ、イエス・キリストがろばに乗ってエルサレムに入城した日に当たる。さて、バスから降りた人物はいったい誰なのか。

2. キリスト

チャーリーがキリストになぞらえられていることについては、彼がキリストと同じ金曜日に死亡する(ようにみえる)ほかにも、いくつかの表徴がある。たとえば、チャーリーの職業が教師なのは、彼がキリストと同じく人に教えを垂れる人物であることを示す。ピザの配達人に姿を見られた木曜日の晩にチャーリーがドカ食いをするのは、最後の晩餐の露悪的なパロディだ。その後のトーマスとの言い争いで、チャーリーは自分の手足のむくみやたるみにできたカビ、背中のできものに言及するが、手足や脇腹、背中の傷跡は「聖痕」と呼ばれるキリストの表徴である。

映画や小説でキリスト的な人物がとる行動といえば、自己犠牲か贖罪と相場が決まっている。

チャーリーの心臓の疾患は、彼の心が取り返しのつかないほど深く傷ついていることを表す。彼はかつて、自分の身勝手な恋のために妻と幼い娘を捨てたのだった。そのことに対する後悔と、娘エリーに対する深い罪の意識が彼の心をむしばんでいる。さらに、恋人アランを失ったことに対する悲しみと自責の念も抱えている。これらの後悔や悲嘆や罪の意識がたまりにたまって、チャーリーの身体を鯨のように太らせている。チャーリーの巨体は彼が背負う十字架にほかならない。

チャーリーは、自分が犯した罪を死をもって贖おうとする。同時に、娘エリーが抱える世界に対する憎しみも、自分と一緒に葬ろうとしたのではないか。映画のラストで自力で立ち上がり、エリーに向かって歩き出すチャーリーの姿は、重い十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るキリストと重ねられ、彼の贖罪をシンボリックに映し出す。

3. ヨナ(もしくはエイハブ)

チャーリーの恋人アランは福音派教会の元信者だったが、チャーリーと恋に落ちたため教会を放逐される。教会は同性愛を認めないからだ。しかしアランは幼いころからの信仰を捨てることができずに苦悩し、なかば自ら命を絶つように亡くなってしまう。

旧約聖書の『ヨナ書』において、ヨナは神の命令に背いて逃亡するが、同じようにチャーリーの恋人アランも、教会に背を向けてチャーリーと生きる道を選んだのだった。しかしヨナが鯨の腹の中で回心し、陸に戻されるのとは対称的に、アランは苦悩の末に川岸で水死体となって発見される。トーマスはアランの死を、神の命令に従わなかったためだと解釈し、チャーリーを説得しようとする。

『白鯨』のエイハブ船長は、モービー・ディックに飲み込まれて回心するどころか、片足を食いちぎられてますますモービー・ディックへの憎しみを募らせる。超自然的な力に対して、ヨナのように従順にしたがうのか、それともエイハブのようにたとえ破滅しても最後まで反抗するのか。余命わずかであることを知りながら入院を拒み、トーマスのすすめる神も拒むチャーリーは、ある意味でエイハブにも似ている。エイハブが片足を失ったように、チャーリーも恋人アランを失った。彼の世話をするリズ(ホン・チャウ)は一等航海士スターバックなのかも知れない。

『白鯨』では、エイハブの妄執によってエイハブひとりが破滅するだけでなく、ピークオッド号も沈没し、イシュメールを除く乗組員全員が犠牲となる。ピークオッド号には多種多様な国籍や人種の水夫が乗組員として乗船しており(第40章)、それはアメリカ合衆国の縮図ともいえるのだが、チャーリーの部屋のテレビに2016年のアメリカ大統領選挙のニュースが映るのは、その意味で示唆的だ。トマス・ホッブスは、国家を海の怪獣リヴァイアサンにたとえたのだった。

4. イシュメール

白鯨の語り手であるイシュメールという名は、旧約聖書で族長アブラハムと女召使ハガルとの間に生まれた息子イシュマエルに由来する。その後、正妻のサラが超高齢出産で嫡男イサクを生んだため、ハガルとイシュマエルの母子は疎まれて荒野に放逐される。そのためイシュメールという名前には「放浪者」という含意がある。

幼い頃、父親が自分を置いて出ていったエリー(セイディ・シンク)は、旧約聖書のイシュマエルのような孤独な少女に成長している。もしかすると、エリーは父親と同じく自分もゲイではないかと考えているのかも知れない(彼女が父親に再会したときの第一声は「私も太るってこと?」だった。彼女のFacebookには、レズビアンを侮蔑する「dyke」というコメントが書き込まれている。原作・脚本を書いたサミュエル・D・ハンターは、この映画が自身の体験をもとにしたものであると認めているが、ハンターは自分をモデルにチャーリーを造形しただけでなく、エリーにも若い頃の自分を投影したのかも知れない)。

だからこそチャーリーは、彼女が「すばらしい人間(amazing person)」であることを繰り返し強調するのだろう。また「正直に」書くことを推奨するのだろう。

エリーが中学生の頃に書いた『白鯨』についてのエッセイには、「sad」「bad」「saddened」「saddest」といった言葉が並んでいるが、最後は

This book made me think about my own life,
and then it made me feel glad for my ...

で途切れている。続く言葉が何であれ、そこには「glad(よかった)」という自己の肯定がある。チャーリーがこのエッセイを大事にするのは何よりもこの部分だ。チャーリーはエリーを孤独な放浪者イシュマエルではなく、物語の語り手であり、ピークオッド号のただ一人の生存者であるイシュメールであれと、命を賭けて訴えたのではないだろうか。イシュメールは、クイークェグが自分のためにつくった棺桶にすがって生還するのだ。

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