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映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』とケアの倫理

「どんな気がすると思う? 生まれてから死ぬまでずっと、自分の考えがどうでもいいこととして扱われるとしたら。」

『ウーマン・トーキング 私たちの選択』より

サラ・ポーリーが監督・脚本を手がけた『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、実際の事件に触発されて書かれたミリアム・テイヴズの長編小説を原作としている。南米ボリビアにあるメノナイトのコロニーで、多数の女性たちが家畜用の鎮静剤によって意識を奪われレイプされた。当初、被害者の訴えは悪魔の仕業などと言われてまともに取り上げられなかったが、犯人の一人が目撃されるにおよび、数年間にわたる卑劣な犯行が明らかになった。

犯人グループは逮捕されたが、コロニーの男たちは保釈金を支払って彼らをコロニーに戻すことにする。女性たちは帰還した犯人たちを赦し、暖かく家庭に迎え入れるよう命じられる。街に出かけた男たちが戻ってくるまでの間に、女性たちは態度を決めなければならない。選択肢は「何もしない」「留まって闘う」「去る」の三つ。投票の結果「留まって闘う」と「去る」が同数で多かったため、代表者が納屋に集まってどうするかを話し合うことになる。

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議論をはじめる前に、女性たちは互いに相手の足を洗う。洗足式は、イエス・キリストが最後の晩餐の前に弟子たちの足をみずから洗ったことに由来する儀式だが、コロニーで女性たちが担っている役割の象徴でもある。

彼女たちが担う家事、育児、介護といったケア労働は、人間が生きていくために必要不可欠な営みであるにもかかわらず、歴史上存在したほとんどの社会で不当に軽視されてきた。また、その主な担い手は女性であり、これらをよくおこなうことが女性の美徳とされた。こうした家父長制的な価値観は、女性の活動範囲を家庭内に押し込める要因となった。

1970年代以降のフェミニズムは女性の自立と社会進出を促したが、家庭内でケア労働に従事する女性の地位は現在でも(主に経済的な理由から)相対的に低いままである。現実には主婦業に生きがいを見出す女性も数多く存在するが、彼女たちに対する「家父長制的な価値観を内面化しており、男性中心主義社会の維持に利用されている」という批判は、ある程度は正当な批判であるにしても、自律的な個人をケア実践者より優位にみるという点で、やはり旧来の価値観を引きずってしまっているのではないか。

発達心理学者のキャロル・ギリガンは、個人の自立や規範性を重んじる「正義の倫理」に対して、他者への共感や関係性を重視して争いを避ける価値観を「ケアの倫理」と呼び、従来の心理学では後者が不当に低く評価されていると主張する。相手をねぎらい、跪いて相手の足を洗う女性たちは、自身も性暴力の被害者でありながら、傷ついた隣人のため、何よりも子どもたちのために議論を尽くそうとする者たちだ。彼女たちは互いが互いをケアし、ケアを受けることでつながっている。

「何もしない」「留まって闘う」「去る」の三つの選択肢をキリスト教的な「赦し」の観点からみると、「何もしない」ことは性暴力の犯人を赦すことに相当する。罪を犯した人を非難せずに許すことはキリスト教的な規範では尊いこととされる。しかしオーナ(ルーニー・マーラ)は、「強制された赦しは本当の赦しと言えるのか」と疑問を口にする。

キャロル・ギリガンは、「家庭の天使」と呼ばれる19世紀の道徳規範、すなわち「ひたすら他者のために行動し、他者の言葉に逆らわない」女性の善性について「[その実態とは]つまり、声を放棄し、関係性や責任から身を引いてしまうこと」であり、「天使の声は、女性の肉体を通して語るヴィクトリア朝の男性の声なのです」と述べている(『もうひとつの声で』「一九九三年、読者への書簡」)。「何もしない」ことは彼女たちにとってケアの責任の放棄であり、「赦し」を説く声とはレイプ犯を再びコロニーに迎える男性たちの声にほかならない。劇中、男性たちの声を最もよく内面化しているのがスカーフェイス(フランシス・マクドーマンド)だ。また、マリチェ(ジェシー・バックリー)は夫の日常的な暴力にさらされており、夫に逆らえば子どもや自分がさらに虐待されるため、「何もしない」以外の選択肢を受け入れることができない。

「何もしない」を赦すこととすれば、「留まって闘う」は犯人を赦さないという選択だ。女性たちの中で最も強く闘いを主張するサロメ(クレア・フォイ)は「自分の子どもを傷つける生物は何であれ破壊してやる」と叫ぶ。不正義を許容せず、悪に立ち向かうことは一般に「正義の倫理」に属する。しかし、サロメが犯人たちを許せないのは、世界が公正であるべきだからではなく、自分の子どもを守るためだ。子どものためなら「永遠に地獄の劫火に焼かれようともかまわない」という彼女の破滅的な決意は、虐待を避けるために現状維持を選ぶマリチェの態度と表裏をなすが、どちらも自己犠牲的なケアのかたちなのである。

では、彼女たちが最終的に選択した「去る」はどうか。それは赦すか、赦さないかのどちらかしかない選択を宙吊りにして、赦さなければならない暴力からも、赦さないことによって生じる暴力からも遠ざかることだ。コロニーを「去る」にあたって、女性たちは幼い子ども、介護が必要な者、世話すべき家畜を連れていく。彼女たちがつくる新たなコロニーは、ケアを核として構成されるだろう。

現実にそのようなコロニーが存在可能なのかどうかは定かでない。それはまだどんな地図にも載っていないほど遠くにあり、白昼夢のように非現実的だ。それでも彼女たちは、目的地に着くまで何世代もわたって旅をする蝶のようにそこを目指して、おそらくは今もまだ旅を続けているのである。


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