記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

ムーンダンス・ダイナーで日曜日のブランチ 映画『tick, tick... BOOM!』に関するノート

ネットフリックスで映画『tick, tick... BOOM!』をみた。代表作『レント』で知られるミュージカル作家ジョナサン・ラーソンの自伝的ミュージカルを、リン=マニュエル・ミランダが映画化した作品(以下は、cinemactif主催のペップさんが毎月開催している「マンスリー・シネマ・トーク・オーバーシーズ」というオンライン・ミーティングに参加したときお話したことをまとめたものです)。


新作ミュージカルの発表会が間近に迫っているのに、必要な曲はいっこうに書けない。恋人のスーザンは就職してマサチューセッツに引っ越すと言い出す。HIV陽性の友人は容体が悪化して入院してしまった──30歳の誕生日目前、ジョナサン・ラーソンの頭の中は悩みと不安で飽和状態だ。おまけに今日は日曜日。ジョナサンの勤めるダイナーにはブランチを食べにくる客が引きも切らず、混乱は頂点に達する。

映画中盤のこの場面で、「サンデー」というナンバーが歌われる。荘厳な曲調と裏腹に、歌詞の内容は「家で食べればいいのに」という皮肉、というかダイナー店員のボヤキである。

コーラスに加わるダイナーの客は全員ブロードウェイのレジェンド俳優のカメオ出演だが、そのなかでジョナサンからひと際リスペクトをもって迎えられる女性がいる。彼女はバーナデット・ピーターズ。スティーヴン・ソンドハイムのミュージカル『サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ』で、ヒロインのドットを演じた俳優だ。

なぜ彼女が特別待遇なのか? それはこのナンバーが、彼女の出演した『サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ』第1幕のフィナーレを飾る同名曲「サンデー」のパロディ作品だから。映画では、ジョナサンとマイケルとスーザンの3人が、TVでこのミュージカルを観ている場面がある。

ジョナサン・ラーソンは、自身の自伝的なミュージカルになぜこの曲を加えたのだろうか? 第一の理由はもちろん、ダイナーをテーマにした曲が必要だったからだ。ジョナサン・ラーソンはのちに代表作『レント』で大きな成功をおさめるが、下積み時代の約10年間ダイナーでウエイターとして働き、糊口をしのいでいた。

第二に、ジョナサンが私淑するスティーヴン・ソンドハイムにオマージュを捧げるためだ。映画『tick, tick... BOOM!』には、処女作である『スパービア』をソンドハイムに評価される場面がある。また『スパービア』発表後、ソンドハイムは留守番電話にジョナサンを激励するメッセージを残す。『サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ』の特徴的なジョージのアルペジオは、映画『tick, tick... BOOM!』においてソンドハイムのライトモチーフとして使われている。

第三の理由は、『サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ』の内容と関わってる。このミュージカルは、フランスのポスト印象主義の画家ジョルジュ・スーラと、彼の代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」をめぐる物語だ。

グランド・ジャット島の日曜日の午後

スーラ(劇中ではジョージ)にはドットという恋人がいるが、ジョージは自身の新しい技法である点描で絵を完成させることに夢中で、彼女をないがしろにする。ドットはとうとう別の男性と結婚してアメリカに渡ることを決意するが、内心ではジョージが自分を引き留めてくれることを望んでいる。しかしジョージはドットを拒絶し、代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を完成させる。ここまでが第1幕だ。

このプロットからわかるとおり、ジョージとドットの関係はジョナサンとスーザンの関係に重なる。以下は3人がTVで『サンデー・イン・ザ・パーク(…)』を観ていたとき、マイケルとジョナサンが交わす会話。

マイケル:なぜ彼女に愛していると伝えないんだ? 芸術家は恋人になれないのか?
ジョナサン:愛しているさ。
マイケル:でもうまく伝えられない。
ジョナサン:そりゃ個人的問題だ。

ジョナサンが正しいとすれば、彼もジョージと同じ「個人的問題」を抱えていた。ジョナサンとスーザンは激しい口論(「セラピー」)の後いったん和解するが、スーザンはジョナサンがいまの状況を曲にしようとしていることを敏感に察知し、やはり一緒にはいられないことを悟るのだ。

それでも、ジョージの描いた「グランド・ジャット島」には恋人のドットをはじめジョージの母親や友人など、彼の周囲の人々が描きこまれている。ジョナサンもエージェントのアドヴァイスに従い、自分の周囲の人々をミュージカル「tick, tick… BOOM!」に描く。ジョナサンは自分自身の「グランド・ジャット島」を描いたのだ。

もっともジョナサンは、自分がこの後もスーラと同じ運命をたどるとは思っていなかっただろう。スーラが31歳の若さで急逝したように、自分も35歳の若さでこの世を去ることになるとは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?