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生きることとは虚像の中で役割を果たすこと -物理学と仏教の話

1月6日(水)曇り

年末年始は絶好の読書日和だった。
みんな休んでくれると、僕も仕事せずにのんびりできるので嬉しい。暖かい部屋で外の景色を眺めつつ、本を読めることは至福だ。

年末に買い込んだ本で、特別に面白かったのがこれだ。

時間を物理的観点から突き詰めていくと、僕らが等しく共有できていると「思い込んでいる」時間という概念は成立しなくなってしまう。

過去はもう変えられない、しかし未来はこれから決められると思えるのは、僕らが世界を曖昧にしか見ることができないからだ。過去と同じ程度、未来も決まってしまっている。もしも僕らが量子レベルまで完全に把握できれば、もはや過去も未来も意味をなさなくなってしまう。

虚像の世界と仏教観

僕が現代物理学が好きなのは、今まで当たり前だと思っていた常識がドラスティックに覆されるからだ。僕らが実在していると思っている世界は、物理学的に突き詰めると虚像になってしまう。時間は虚像、世界も虚像、社会ももちろん虚像、自分すら虚像。僕らは虚像の中で生きて、虚像の中で死んでいく。

そんな物理学がたどり着いた幻影を、2500年前に悟っていたのが仏教だった。僕は仏教徒ではないけれども、まず世界が虚像であることを前提として組み立てられてきた思想体系は、宗教としてではなく哲学として、教えられることが非常に多い。

空虚な世界で、自分すら雲のように定まらず、儚い存在であるならば、何を拠り所にして生きていけばいいのか。世界が虚像ならば、何をやっても意味がないのではないか。そんな迷える民衆に仏教が出した答えが「役割論」であった。

この世は役割と機能の集積体

雲は水蒸気の集まりで、雲という実態はない。だからといって雲の意味がないわけではない。雲の「役割」による機能によって、地球のあらゆる生命は生かされている。宇宙はそのような無数の機能が互いに影響を及ぼし合いながら成り立っているネットワークなのだ。

この世の森羅万象すべてが役割と機能を持っている以上、意味のないものは何一つない。そこに虚像ではない存在性を見出すことができる。

だから自分の役割にフォーカスして生きれば、その他のことは全部虚像なんだからどうでもいいだろう、というのが僕が一番好きな仏教の教えだ。有名な諸行無常や色即是空といった概念も、その中に含まれる。

僕は子供の頃から絵を描くことが好きで、今も絵を描き始めると夢中になってしまう。そうなると面白いもので、時間をはじめ、ありとあらゆることが意識の枠から外れてしまう。そういうのを集中するとか、ゾーン入るなどというのだろうが、その瞬間を、一切の虚像から自由になっている状態、とも言えるのだろう。

自分の役割はこれであると本当に確信できることはないだろうが、おそらく好き好きで、やらずにはいられないことが、その人間に課された役割なのではないだろうか。

人間とは内から湧き出るエネルギーによって生きる超人であるようなことをニーチェも言っていた。水木しげるさんは好きなことを「病気のようなもの」と言っていた。捉え方はそれぞれにしても、人が解放される時というのは、役割を果たしている時しかないのではないかと思う。

一枚絵としての時間

時間の話に戻るが、時間を厳密に見れば、過去も未来もない。原因と結果というベクトルも成立しないのであれば、自分の選択を憂うことも意味のないことなのだろう。

エントロピーの話まではしないが、時間とはあるように感じているだけの話であって、僕らは曼荼羅のような一枚絵の中に存在する点のようなものなのかもしれない。

ならば自分の人生も過去とか未来とかではなく、一枚絵として考えるのが正しいのではないだろうか。それが虚像の中で自分を見失わずに生きる有効な方法であると思っている。その一枚絵こそ、自分の役割そのものなのだから。

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