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スポーツ・ルール(競技規則)をガチで読む。序の二(参考文献紹介)

前回では、中村敏雄氏の『スポーツ・ルール学への序章』を紹介した。
各論に入る前に、この連載における私自身の視座を整理し、見通しを良くしておきたい。

私の問題意識の喚起してくれたのは、4冊。いずれもスポーツを考える者ならば、読んでおかなければならない必読文献である。1冊というなら、最後に紹介する、守能信次『スポーツルールの論理』(大修館書店、2007年)をお薦めする。スポーツルールについての最良の教科書である。VAR等、最近のスポーツルールの変更について、語りたいなら、これ一冊で十分と思う。また、法社会学のスポーツルールへの応用書とも読める。法社会学に興味がある方にもぜひ読んでいただきたい。

さて、まずは、中村敏雄氏の『スポーツ・ルール学への序章』である。
中村は、本書冒頭「はじめに」で次のように書いている。

スポーツのルールには、なぜこのようなルールがあるのか、どうしてこのようなルールをつくったのかと思われるものが多い。・・・野球はなぜ9人で試合をするのか、サッカーはなぜ11人なのかという疑問をもたなかった人はいないだろう

しかし、この「なぜに」答えるのは困難である。なぜなら、

スポーツのルールがすでに決まっているもの、また守り、従わなければならないものとして与えられる

からである。しかし、

新しいルールを考え出したり、古いルールを変えたりする背後には必ず何らかの<理由や原因>があり、そこにその時代と社会に生きた人びと・・・のスポーツ観、人間観、社会観等が含まれている

そこで、そのスポーツ観からルールを考察できないか。というのが、中村の目論見である。

私はこの視座を受け継ぎ、現代人には、「なぜ」と言うことしかできない「ルール」をその社会に生きた人びとのスポーツ観、人間観、社会観を通して見たい。
どこまで成功するか分からないが、この視座はルールの最下層にある前近代的ルールを分析するのに、有効であると考える。
また、前近代的ルールを分析するに際しては、いわゆる「社会契約説」を唱えた、ジョン・ロックの哲学を使うことも目論んでいる。

次に挙げるべきは、松井良明『近代スポーツの誕生』 (講談社現代新書 、2000年)であろう。この本は、その題名の通り前近代的「遊戯」が如何にして『近代スポーツ』に洗練されていったか、を教えてくれる。
お手本のような議論で、スポーツ・ルールの近代的な層を分析するのに用いたい。

スポーツは近代化の後、大衆化する。大衆社会の誕生である。すなわち、スポーツは特権的な一部の者ためではなく、誰もが参加できるものとなる。そのため、ルールは誰の目からも分かりやすく、成文化されるようになる。

そして、やがて「スポーツを観る」と言う文化が社会の中に生まれるようになる。「スポーツをする者」と「スポーツを観る者」の分化である。これは、スポーツの歴史を考える上と、最も大きな転機だったのではないかと思われる。

そして、ここに、「スポーツ・ビジネス」と言うものが誕生することになった。プロ・スポーツの誕生である。労働に対するスポーツではなく、労働そのものとしてのスポーツである。

この大きな転換点を非常に良く捉えているのが、ベンジャミン・G・レイダー『スペクテイター スポーツ』(大修館書店、1987年)である。主にアメリカのスポーツが取り上げられている。

「スポーツを観る」と言う行為が、すなわち観客が、メディアの進歩とともに、如何にスポーツ・ルールを変えていったかが分かる。近代から現代までの議論の参考になるであろう。

そして、いよいよ現代である。現代スポーツの特徴は、VAR等、テクノロジー自体がルール化され、ゲームに取り入れられていっていると言うことであろう。
それに伴い、多くのスポーツでルールが書き換えられている。

現代のスポーツ・ルールを理解するための補助線を与えてくれるのが、守能信次『スポーツルールの論理」(大修館書店、2007年)である。私は、どのスポーツにおいても、何かルール変更があれば、都度本書を読み直すようにしている。議論は非常にシンプルで整理されている。また、どのようなルール・チェンジにも対応できる懐の深さもある。
傑作である。

以上、私の視座ということで、参考文献を紹介させていただいた。
次回から、いよいよ各論に入っていく。
ようやく「相撲手帳」を手にいれることができたので、まずは、「相撲」からルールをガチで読んで行こう。


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