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100キロ超級金メダルの重みー柔道「最重量級」の歴史

柔道の「最重量級」とは何か。それは、男子で最も重い階級である。五輪ごとにその定義が変わるので、「最重量級」とは、パリ五輪では、「100キロ超級」である。 

柔道が初めて五輪種目として採用されたのは、1964年東京五輪からである。当時、最重量級は、「無差別級」と呼べれていた。その後、95キロ超級、100キロ超級と名前を変えた。

ボクシングの「ヘビーウェイト級」と同じく、体重制限はない。ここで、ボクシングを例に出したのは、日本人がボクシングで「ヘビーウェート級」のチャンピオンを出したことが、あるかということである。

もちろん、無い。最高で、「村田諒太」のミドル級までであろう。それでは、柔道ではどうだろうか。五輪の歴史を紐解くと、13大会中5大会、金メダリストを輩出している。

順にあげると、上村春樹、山下泰裕、斎藤仁、鈴木桂治、石井慧である。そして、2008年の北京五輪での石井の金メダルが最後である。

体格の劣る日本人が世界と伍して戦っている、唯一の体重無差別の「格闘技」は、柔道だけであろう。それゆえ、この13大会中5大会というのが、難問なのである。それを成功と見るか、失敗と見るかで問題意識が変わってくるのだ。

我々の感覚では、最近の日本柔道界をみると、世界で成功しているように思われる。しかし、最重量級では、3大会連続金メダルをとれていないのである。

日本柔道界にとっては、決して成功しているとは言えないのである。柔道界にとって、成功というのは「最重量級」での金メダルなのである。

「小よく大を制す、柔よく剛を制す」という柔道のモットーがある。しかし、体重別で競技が行われる場合、そのようなモットーに固執しては居られないのである。

そもそもの始まりは、1964年東京五輪からである。他の階級では全て金メダルを取ったのだが、最重量級では取れなかった。このことが、当時の日本人にとって如何に屈辱的事態だったかは、決勝で戦った日本人「神永昭夫」より、オランダ人「ヘーシンク」の名を日本人が覚えていることからも分かるであろう。

ここから、「日本最重量級で金メダルを」という「物語」が始まる。

そして、大事なのは、「全日本選手権」という装置も動き出すことである。「全日本選手権」は、体重無差別で行われる。「全日本選手権」で優勝した選手が、「日本一強い選手」であるとするなら、体重無差別で勝った選手が「日本一強い選手」となる。

この「日本一強い選手」が「金メダル」を取らなけば、日本柔道界のプライドが傷つけられるのである。

確かに、我々一般人は、最重量級以外の古賀、吉田、野村等の名前を覚えている。それでは、この選手達が日本代表の監督になるか、というとそうでもない。全て、重量級の選手が代表監督を務めている。

古くは、山下泰裕氏、斉藤仁氏、最近では、井上康生氏、そして鈴木桂治氏。全日本柔道連盟のトップも元重量級の選手が務めている。このことを考えると、柔道界が一番「力」を入れているのが、最重量級であることは明白であろう。

その競技について、顔となるのが監督であるとすると、また他の階級の選手から不満がでないのも、最重量級の選手こそ日本柔道界の顔であるという、柔道界の暗黙の了解が感じられる。

今回のパリ五輪には、最重量級で活躍した齋藤仁氏の子息の、斉藤立選手が100キロ超級で出場する。ここに、また日本の新しい最重量級の「物語」が生まれるだろう。

以上を基に、今日から始まる「重量級」「最重量級」の試合を観ると良いであろう。柔道界は、固唾を飲んで見守っているだろう。我々も、何がかかっているか、その緊張感を味わうのも一つの楽しみであると思う。


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