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bibouroku#5

初めて紅茶を買った。今まで紅茶よりはコーヒー派だった。小さい頃紅茶特有の最後の残り香が少しだけ苦手だったことが、そうさせていた。でも、私の大事な友人の好きなものを少しでも共有したいと、理解できなくてもいいからと、紅茶を飲むところから始めてみた。今日の書き出し、ポエミーすぎないか。ちょっと恥ずい。

「私ができることは、しれている」

目的から戦略が降りてきて、戦術が降りてくる。そうしていろんなことを考えてきた。ソシオファンド北九州のびびんこから自分の振る舞いまで。私ができることはたかが知れていると、だからこそ考えることは辞めてはならないと。それが私にできる役に立たないながら唯一のことだと、そう信じていた。

そうして私が信じて行動することすら、しれている。それが全く役に立たないならよい方で、嫌悪感を、拒否感を示す人と、自然がある。環境や風気、それが私を拒んでいた。だから”考えない”ことを求められたのは初めてだった。

考えて考えて実行して失敗しての繰り返し。そう時間を使うことでやっと少しずつ前に進むことができる。それがやる意味だと。それをしないで前に進むことができるわけがないと。そういう信念だった。

「そんなことはやらなくていい」

かなり否定的な文章に思えるが、それこそが私に架けられていた枷だったのか。自分が満足するために、自分の気持ちがいいように、「やらない」。そうじゃない。自然が、人が、世界が「やる」ことを求めないのだ。「やらないでいい」「やるな」ではなく「求められていない」のか。そんな世界で生きてこなかった私が、その世界に包摂されることに正直、戸惑いを隠せなかった。

だから「考えて行動して失敗を繰り返してやっとスタートラインに立てる」という概念に固執した。確かにそれは間違ってはいないのかもしれない。それでも、自然にアプローチしたければ、必要条件だけでも十分条件だけでもダメで、必要十分条件でなければいけないようだ。何が必要条件で何が十分条件なのか、それは私が決めるのではなく、自然と社会を含めた世界が決めることだ。私のできることは、そこをみて架け橋になることなのかもしれない。

だからって「考えないで怠慢に、満足に浸る」んじゃない。

「何を考えて、何を考えないのか。それを自然と社会から見極めて降ろして、私が私自身に囚われないように。」

そうした摂理に身を置く。

「満足できる、考えたいこと」の世界は別で持てばいい。自分のやりたいことは自分でやるフィールドを持てばいい。何も一つや二つに固執する必要はない。私の根幹にある「全部やりたい」気持ちがそうさせるなら、それでいい。全部やる。

それでもそれぞれに迷惑をかけないように、互いに利害も気持ちも納得できるところでやる。納得を得られないのであれば、仕方ない。そこにいないことを、自然が促したのだと。末端に囚われてはいけない。人から世界を見てはいけないが、世界は人からしか見えない。自分の世界に固執してはいけないが、世界は自分の中から見るものだ。

くだらない障壁は捨てたと思っていたが、まだ残っていたことにびっくりした。青いことを経験してくのも、今しかできない、いいことなのだろう。

そうやって立ち返るには、本を読めばいい。自分と対話するために、くだらない障壁を捨てるために、本に帰る。紅茶とコーヒーがあれば、それだけで帰り道にいい風が吹く。

アランー「幸福論」

とても深い。人生をかけて読みたい本かなあと思いながら、今はほとんど掬えない世界を眺めているだけでも、いい時間になる。人生の少ないうちの「やりたい」ことだ。

まだまだ言語化したい部分があるけど、今の実力ではこんなもん。残念。

いつかきっと。では。

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