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爛れがき、逃しがき。

ここ2ヶ月は、少し時間に余裕がある日が増えた。
仕事は大体9時〜18時で済ませている。
半年前は、9時〜20時くらいまでを割り当てることが多かったけれど、少しずつ私自身の周りを整えるために、早めに終業する生活に切り替わった。

これまでの2年くらい、慌ただしいとも忙しいとも違うけれど、
しかし確かに、何かに追われるような、何かに囚われるような感じがしていた。

環境がコロコロ変わっていくことの負担。
周りの人間関係がコロコロ変わっていくことの負担。
求められることがコロコロ変わっていくことの負担。

私に求められるうちに、私自身からの要請が入っていないことは、楽でもあるし、大変なことでもある。私自身で決めていない領分のことがほとんどとなると、ひたすら忙しさで満ちてしまう。
しかし、私自身のみが求めることが満ちるのを受け入れられるほど、若しくは求めることができるほど、人間できちゃいない。
ここが、究極にもどかしいところだ。

しかしやはり、少しずつ慣れてくると、私以外からで満ちることが本懐とはしていないことを感じることが増えた。
日常のあらゆるところで、本来のやりたいこと、考えたいことの鱗片は確かにある。

終業が早くなったことで、少しずつ考える余裕も出てきたし、体力や健康、もちろん精神的な面もカバーできるようになってきた。だからこそ、狭い世界を生きていることに改めて気がついたし、1年くらい私自身のテーマが変わっていないことを後悔することも増えた。いい加減に次のテーマに進みたい気持ちもあるし、収入の柱を作らないとこの先の自由、関係を他人で満たすことになってしまう。それは本懐ではないと、ヒシヒシと感じている。

住む場所というのは、精神的にも体調的にも健康に大きく関係している。
文面にしてみれば当然過ぎて拍子抜けしそうなのだが、体験するとこれが言葉を大にして伝えたくなる。

私の場合は、引越しをしても1年くらいは全然馴染まない。どころか、余所者の感覚や、以前と違うことのストレスとも違う体の戸惑い、以前住んでいたところへの懐古が、私が馴染むことを否定する。

文化人類学にはエスノグラフィという調査手法があって、母国の文化とも違う、異文化とも違う身体の状態が一番調査するのにいい状態だと、Wiredで取り上げられた小川さやか先生の記事があったが、モチベーションや目的がはっきりしていなければ、一度狂ってしまうのではないかというのが、一読した感想だった。

私なんか九州から東京に引っ越しただけでかなりしんどかったんだが。笑

ところで今日、本をを読んでいると、マクロコスモス、メゾコスモス、ミクロコスモスというのが出てきた。

マクロコスモスとは自然、海や山、生態系とも言えるのだろうが、一人の人間が理解するにはとても大きなほどの自然、ということらしい。
メゾコスモスは少し規模を小さくして、都市や街のレベルを言うらしい。それでも規模は大きいし、地元ですら細かく知らないけれど、それくらいの大きさ。

ミクロコスモスはさらに小さくして、住居や部屋など、生活空間とも言えるほど身近なもの。私たちの身の回りと言い直してもいいらしい。

マクロコスモスは私たちが常に手を加えてきた範囲。遠ざけたりレジャーとして楽しんだりする、人工的な自然ともよく言われるが、最近は気候変動の影響もあってマクロコスモス大暴れ。その存在感は、ハワイの山火事が記憶に新しいが、年々増している。

ミクロコスモスは私自身とも思っている。ストレスが溜まっていると部屋は散らかるし、気持ちに余裕がある時は割と整っていたりする。仕事の進み具合も食事のバランス具合も、私自信を表すことが多いと思いながらも、その流れを自身で構築することが苦手だ。

メゾコスモスとの付き合い方が一番の問題だ。私にとってメゾコスモスは、家から職場までの道、その道程にあるドラッグストアとコンビニ、あと少し歩いてお弁当屋さんとイオン。イオンの隣には駅があって、20分くらいで仙台駅に到着するのでそれまでを入れていいのだろうか。

私が異国人でありながらも生活をしなければならない苦慮の原点はこのメゾコスモスにある。過去に経験したいい思い出ばかりがフラッシュバックして、しかしもうそこにはいない私の居場所を、今住んでいるメゾコスモスに投影しようと試みるも、頭も身体もここにはない。なぜなら異国人だから。

私はあまりそういうことに耐性がないのかもしれない。
思いつきで住む場所も、仕事も、人間関係も選びがち。
逆に、長年住んでいると、時間の割に有機的な人間関係を作れていないと思って変化を求め始めるので、我ながら身勝手だと自覚している。

所詮は、ないものねだりだ。

本当は、環境ではなく、私が何をやるかの方が全く重要だと思うが、そこが思うようにいけばそれはいいよと、そう思うことが多かったが、ここ最近はあまりに思うようにいかないので、一周回ってやってやろうという気持ちが強い。

こうして目的なく文章を書いているのには理由がある。
それは、私は毎日8時間くらい寝て、朝早く起きて適度に仕事して、そのあと私自身の仕事?をして本を読んで少しダイエットして寝るような、一方では私が望む幸せな生活には救いはないのではないだろうか、という疑問が湧いてきたからである。

そもそも私は朝早く起きるのが苦手だ。7時に起きてコーヒーを飲む生活には、この24年間ずっと憧れているのだが、いざ7時にアラームを鳴らしてもあと30分寝るほうをいつも選んでしまう。適度に仕事をと思っているが、たくさん寝た方が頭に靄がかかったように働かない。錆びている。
ダイエットとか体を動かすことを考えたら、睡眠時間は長い方がいい。なにしろ睡眠が短いと太りやすくなる。

ここ3年間の体重の増加は、正味、由々しき事態である。恥ずかしい。

それでも、3連休があればすぐに夜型人間になってしまうし、以前の睡眠時間が短くて朦朧としている方が頭が働いたり、本を読む時間だって長かった気がする。

何かを「やっている」感じの充実感には、疲れていた方が浸りやすいというのはあるのかもしれないが、それでも、4時間の睡眠の方が寝起きが良かったりもする。

あんまりこういうことは言いたくはないけれど、夜型人間、基本的に病的なのかもしれない。能動的、積極的な理由で物事を探究する方が、私には限度があるように感じられてしまうし、何より何か大事なものを失っているように思えてしまう。

リアルで会える友人はいないし、会話はほとんど仕事仲間だけ。それも年が50くらい離れているから、会話が合うというような次元の関係性ではない。それもあって、最近は自分の周りを整えて人脈を作りたいなと思う。

そういう意味でも、本、音楽と一人でも楽しめる趣味に系統しがち。
狭い世界を生きている。もっと何かの賞に応募したり、もっと私のやりたい仕事の環境を作ったり、書籍を読んだり音楽を楽しんだり、一人でもリアルの友人を作ったりすることが必要…なんだと思う。

そのためには、ゆったりと寝て、朝早く起きてコーヒーを飲みながら、みたいな一方の私がのぞく幸せ像ではいけないと、そう思った。
やっぱり根底のどこかは病的で、そこから創造される何か、それをたくさんの人たちの考えや意見を聞きながら、テーマを新たにしていくことが必要だ。

私を作る因子があまりにも少なすぎたために、こういう状態になってしまったけれども、これからは着実に増やすことが必要だし、私の「部分」を他に委ねてあやかる作戦もありだなと思う。そのための入り口づくりをしておこう。

必要なことは、ゆらぐこと。ゆらぎながら、安定することだと思った。
そんな私の、取り留めのない3000字。

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