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自分の頭で考える以上、こじらさざるをえない

「自分の頭で考えるのはいいけど、こじらせて変な人間にはなりたくはないな」と考えていたところ、「それは無理かも」と思い至った。

「自分の頭で考える」は「外にある正解を選びとる」ではない。むしろ、「正解を否定する」ということでもあり、「いちいち水を差して場をシラケさせる」ということでもある。

つまり、世間にとって「めんどくさい存在になる」ということなので、「こじらせている」という評価は受けて当然だということになる。


noteを始めて3か月目くらいになる。投稿していく中で、たくさんの人に読んでもらうため(というか、数字を稼ぐため)にいくつか企画を考えたり、記事の書き方を工夫したりしてきた。

その中で僕がいつの間にか陥っていた穴ぼこがある。それは、「良い人としてふるまわなければならない」というものである。

穏やかな方法で数字を稼ぐためには、やっぱり良い人でなければならないと思う。炎上したいなら手段を選ぶ必要はないが、そうじゃなければゼロからこつこつと信頼を築いていくしかない。

だから良い人にならなければならないと思っていたが、良い人になるためには常に「正解」を発信する必要がある。少しでも人の気に障るようなことをいってはいけないし、めんどくさいことを言ってもいけないし、今の流行とミスマッチなことを言ってはいけない。読んでいて「なんだこれ」と思われてはいけない。

となると当然、自分で考えるということは放棄しなければならなくなる。「社会に迎合するためには自分の頭で考える必要があるんじゃないか?」とも考えられるが、それは「考えている」のではなく「探している」に近い。

「世間ではこういう考え方をよく聞くようになったから、僕もそういう発言をしよう」は考えていることにはならない。むしろ、今までの考え方を簡単に捨てて人の真似をしているのであって、拾ったバッジを胸につけて世間の顔色をうかがっているだけだ。

とか考えていると、今度は「頑固じじい」とか「老害」という言葉が浮かんでくる。「新しい考え方ができない人」という評価は、今ではかなり不名誉なものだ。「時代から取り残された」といわれないために、僕はきわどいことには口をつぐむ。なかには、うっかり口を滑らせた人を「害悪だ!」と集中砲火する人々もいる。

だから僕はほとんどみんなと同じような考え方をして、同じようなことを発信する。大炎上して身元を特定されるというリスクを犯す勇気もないから、きわどいところでは大ブレーキを踏んで徐行運転をしている。結果として、誰の心も打たない、優等生な生き方になる。


そんなツマラナイ生き方をやめるには、嫌われる覚悟で自分の頭で考えるしかない。

そして、自分の頭で考えることのメリットは大きい。それは僕を悩ませていた、僕にとってはどうでもいいはずの物差しを否定することであり、その物差しからの自由を意味するからだ。

「リトリート」や「デジタルデトックス」や「瞑想」に耽る人は、いったい何をしているのかというと、僕たちの頭の中にいつの間にかインストールされてしまった物差しをアンインストールする試みではないか。

ジムで筋トレに励んだり、毎年フルマラソンに挑戦する人だってそうかもしれない。

頭の中にあって消すことができない価値観。消すわけにはいかない価値観。消したいはずなのに世間で生きるためには消してはいけない気がする価値観。「熱中しよう」「没頭しよう」「挑戦しよう」というスローガンが人気なのは、それらを束の間忘れさせてくれそうに感じるからではないか。

でも、何をしてスッキリしようが、寝る前には変わらず頭をもたげてくる。逃げることができない自分という問題。とにかく退屈な自分。

「なんで自分ばっかり、こんなに悩むんだろう」と思える。
「自分は生きるのが下手だ」なんて言葉もいたるところで聞く。

たぶん、生きるのが下手というわけではない。むしろ、上手すぎたんだと思う。もっとゆっくり自分で考えて生きてよかったのに、周りの空気を上手に読んで飛び級してきたからこそ、今になって「自分は何のために生きているんだろう?」という最初の宿題をやることになっているんだろうと思う。そして、その問題に直面するとまた優等生ぶりを発揮して、有象無象が発信する中に正解を見つけ出そうとしている。

分からないものには「分からない」といって足踏みをしていてもいいのではないか?もっと堂々と「僕は今熱中できるものがなくて楽しくないんです」といってもいいのではないか?損をするのが分かっていても、「僕はやっぱりこっちのままでいい」と選択してもいいのではないか?もっと素直に退屈な日々を過ごしていいのではないか?


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