会話の違和感と問いについて
ふと考えようと思ったわけではなく、ふと考えていた。
567の感染者が周りにも増えてきていて、その話題にたいして、話をしていた時のことだ。
567に罹ることが悪いという認識は、時間の経過とともに、慣れという形で、認知が変わり薄れてきた。
ぼくたちは、昔から共存共生していることに対しての気づきを再認識する時、それは違和感から入る。
いい悪いの話はなくなったと思ったら、私は強いから罹らないんだという話をしている人がいた。であれば、罹る人は弱いのであろうか。
罹る罹らないの判断は検査を受ければ分かることだが、しかしその前に、その人が体調が悪いと感じで検査を受けようとする基準にばらつきがある。
ということは、罹っていても気にならなければ検査をしないから陽性にはならない。この時点で、強い弱いが論点ではない。
ぼくが話題に対して違和感を覚えるときに共通するひとつが二項対立で物事を捉え、そのどちらかが確からしいことを譲らないときだ。
そもそも前提が間違っているのではないだろうか、もっと他に考えられることはないか、状況が変わっていないか、正しいことは前提や状況に大きく依存するものだとおもう。
正しいことを言うことに優位性を感じることほど寒いことはない。
正しいことは何のためにあるのだろうか。
いや、正しさに固執することはないんだと思う。そもそも、言葉は情報と物理を繋ぐための道具で、認知を拡張するための手段だ。
話す言葉すべてに意味を考えながら話すことはないけれど、後から考えてみれば、意味のないと思われる会話にはその人が垣間見れる。
日常的に自分に問いかけている言葉がその人の輪郭をかたどる。
だからこそ、何のために問うのか、というところについて考えておいた方がいいのではないか。
ぼくは、きょうはこう思った。
この問いが世界をまたひとつ豊かにできたであろうか。彩を与えたであろうか。
そうあれば嬉しいこと。
そうでなければいたしかたなし。
その評価でさえ、何かに依存しているのだから。
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